凍りのくじら(辻村深月)の書評・感想

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凍りのくじら (講談社文庫)

自分でもさっぱり意味がわからないんだけど、読むと何故か、泣きたい気分になる。実際に涙が流れることもある。
たぶんこの本読み返すの、三回目だと思うんだけど。それでも、何故か。
まだ何も起こってない冒頭を読んだだけで泣きそうになるってのは、一体なんなんだろうなぁ。
内容紹介は省く。
内容紹介はこちらを→http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-1400.html

解説で瀬名秀明は、主人公の理帆子についてこんな風に書いている。

『つまり理帆子は決してすぐさま読者の共感を得るタイプではない。誰もが、「そうそう、これって私のこと!」と錯覚し、一体化できるような主人公とはちょっと違う。』

そうなのか、と思う。僕は、全然違う。僕は読み始めから理帆子に対し、「そうそう、これって私のこと!」と錯覚し、一体化した。
理帆子と僕は、あまりにも似すぎていると思う。それが、僕が本書を読んでザワザワさせられ、抉られる最大の理由だと思う。
理帆子は、「スコシなんとか」という遊びが好きだ。理帆子は、藤子・F・不二雄先生のことを敬愛していて、本書でも様々な場所でドラえもんがモチーフとして登場するのだけど、その藤子・F・不二雄が、「SFというのを自分は、スコシフシギだと思って作品を書いている」というようなことを言っていたのだそうだ。それを真似して理帆子は、自分の周りにいる様々な人の特徴を見つけ出しては、「スコシなんとか」と当てはめている。
理帆子自身は、「少し・不在」。

『私が、自分に名付けたのは、少し・不在。私は、どこにいても、そこに執着できない。誰のことも、好きじゃない。誰ともつながれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも、見苦しいし、息苦しい。どこの場所でも、生きていけない。』

こんなに自分の性質をドンピシャで表現された文章に、なかなか出会うことはない。
理帆子は、どんなコミュニティにも入っていけるし、どんな場でもそれなりに上手くやっていける。自分をどんな風に見せればその場にそぐうかを考えて、いつだってその場に溶け込もうとしてる。その一方で理帆子は、自分がいる場に馴染めない感覚を常に持っている。そこは、自分の居場所じゃない。だから理帆子は、自分がいるその場所を、自分と一緒にいる友達を馬鹿にして見下している。

『目の前のこの会話はあまりにも底辺にすぎるけど、私は多分この場を楽しむには少し頭が良過ぎる。』

全力で恋愛を謳歌し、本なんてまるきり読まない刹那的な友達と一緒に馬鹿騒ぎしている一方で、理帆子はこんな風に考えている。
凄く嫌なヤツだ。
そして僕は、そんな理帆子に激しく共感できてしまう。
僕も同じだ。どこにいても、そこが自分の居場所だと思えないし、常にその場で自分の役割を見つけては、溶け込んだフリが出来てしまう。どんな場にいても楽しめない、なんて言うつもりはないけど、心の底から楽しいのかっていうとよくわからない。一緒にいる相手を馬鹿にすることはないと思うけど、でも相手に合わせてあげないとな、なんて思っている時はそれなりにある。
ね、理帆子みたいでしょう?
確かにごく一般的な人は、理帆子には共感できないだろう。理帆子みたいに冷めた人間だなんて思いたくないだろうし、人と人との繋がりをもっと確かなものだと感じたいことだろう。
僕には、なかなかそういうことが出来ない。

感想

父親が失踪してから、母一人子一人で暮らしてきた理帆子にとって、あらゆる意味で母親というのは重い存在だ。そしてそれは、深さや程度の問題こそあれ、あらゆる家族の間に起こりうることなんだろう。そして僕は、やっぱりそういうことからあっさり逃げる。逃げ続けないと、自分がバラバラになってしまうことを知っているから。
この作品を読むと、普段他人に必死で見せないように取り繕っている、自分自身でさえ意識しないようにしている自分の嫌な部分を、はっきりとくっきりと言葉で表現される。それは、僕を糾弾しているかのようで、随所で僕の心も体も抉られる。辻村深月は、人間を、肉体的ではない意味で解剖しているようだ。人間それぞれの心や精神にメスを入れ、その中をじっくりと観察し、流れ出る血で文字を書く。そう、僕にはその、血で書かれた文字の赤さが見えるようだ。それが、僕をこの作品に引きこむ理由だし、僕に涙させる理由なのだろう

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