考えるヒント(小林秀雄)の書評・感想

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考えるヒント (文春文庫 107-1)

本書は、文筆家として活躍した小林秀雄が、様々な媒体に書き綴った文章を集めたものです。雑誌「文藝春秋」に掲載された結構分量のあるエッセイ、概ね「朝日新聞」で発表された比較的短めエッセイ、そしてソ連作家同盟からの招きによってソ連を訪問した際のエッセイ2編が収録されている。
僕には結構難しい文章だったなぁ、というのが正直な感想でした。僕は、国語の教科書に載っているような評論文みたいなのがあんまり読めなかった人間で、本書も、決して平易とは言えない文章だなと感じました。僕は本書を全体的に、わかるところだけなんとなく読む、というスタンスで読みました。分からないところは、わからないまま放っておこう、という形でとりあえず最後まで読みました。
さて、本書については、あーだこーだ言えるほど僕には読解力がなかったので、僕自身が気になった文章を抜き出して終わろうと思います。

『常識を守ることは難かしいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。私のように、常識の健全性を、専門家に確かめてもらうというような面白くない事にもなる。機会だってそうで、私達には、日に新たな機会の生活上の利用で手一杯で、その原理や構造に通ずる暇なぞ誰にもありはしない。科学の成果を、ただ実生活の上で利用するに足るだけの生半可な科学的知識でも、ともかく知識である事には変わりはないという馬鹿な考えは捨てた方がよい』

『だが、小説の映画化が盛んな現代には、意外に強い通年がある。それは、小説家の視力をそのまま延長し、誇張し、これに強いアクセントを持たせれば、映画の像が出来上がるという通年であり、作家が、これに抗し、作家には作家の密室があると信ずる事が、なかなか難かしい事になっている。井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは。外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感にほかならない。生まの感覚や近くに訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい』

『なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰にも極く普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事が出来ないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺める事を禁じている。作者の眼は、この禁制を破る。作家は、観照の世界という全く不自然な心的態度のうちに棲むものだ』

『(嘘発見器について)この機械の利用者は、機械の性能の向上を願って止まないであろう。だが、この事は、機械がよく働けば、自分は馬鹿でも済む以上、自分の馬鹿を願って止まない事になりはしないか。』

『考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いをしているようぬい思われるからだ、当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を選んだら話さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事であるだが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう』

感想

いつか無人島に一冊持ってくとしたらこの本を選ぶかもしれない。そしてひたすら繰り返し読み続けて、そこに書かれていることを理解したい、というような感想を書いた記憶があるんだけど、本書に対しても似たようなことを感じた。無人島に本書を持って行って、永遠に終わることのない時間の中で繰り返し繰り返し読み続けて、最終的に書かれていることの意味を理解したい、そんな風に思わせてくれる作品でした。
とはいえ、難解に過ぎるか、というとそうでもありません。どの話も、話の導入は非常に身近なものが描かれます。のらくろの話だったり(なんと、のらくろの作者は、小林秀雄の義弟だったそうです)、嘘発見器の話だったり、作家同士でやる文士劇の話だったりと、難しさを感じさせないような話題から話が始まってく。そこから次第に、著者の思索が深まっていき、最終的には導入の話からそんなところまで議論が深まりますか、というようなところまで行く

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