スカル・ブレーカ(森博嗣)の書評・感想

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スカル・ブレーカ - The Skull Breaker

「ヴォイド・シェイパ」「ブラッド・スクーパ」に続く、シリーズ第三弾。
カシュウと二人で山で暮らしていたゼン。カシュウが死に、カシュウの命に沿って、ゼンは山を降りる。町から町へと旅をしながら、なんとなく漠然と都を目指す旅。
強くなりたい。
ゼンの心中のど真ん中には、常にその思いがある。カシュウからは、多くを教わった。剣さばきも、人の世の習いも、侍としての生き様も。しかし、カシュウは山を降りろと命じた。それは、より強さを得られる何かが里にある、という意味だろうとゼンは判断した。
町中で喧嘩が始まったらしい。特に興味もないが、人が集まっているので見てみると、刀は抜いてはいるが闘う気配はない。まあいいか、と通り過ぎ、うどんでも食おうとしたのだが、何がどうなったのか、結局その喧嘩があったが故にゼンは、城に連れて行かれることになってしまう。
ゼンには、状況がよく判断できない。ゼンとともに、ヤナギという、先ほど喧嘩を売られていた男も一緒に連れて行かれることになった。
人違いだと分かってもらえたようだったが、殿様の前でスズカ流の剣を見せるよう命じられる。スズカ・カシュウは、どこに行っても知っている者がいる。やはり相当に名の知れた男だったようだ。
奇妙な一日を過ごしたゼン。帰り際に、文を渡される。九日後に、瑞香院で、と。
というような話です。
森博嗣の作品の登場人物は、『前』に進もうとしない人物が多いように思う。ここで言う『前』というのは、『世間の人が前だと思っている方向』というような意味だ。
ひねくれている、と言いたいのではない。ひねくれていると受け取られる人物もいるだろうが、そうではない。純粋に、見えているものがまったく違うだけなのだと思う。
ゼンは、「失礼します」という言葉に対して、こんな感想を抱く。

『失礼します、というのも、失礼だとわかっていて、でもそうは思わないでほしい、と言っているのである』

僕たちは、特に何も考えずに「失礼します」という言葉を使う。それはもう定型句であって、誰もが疑問なく使う言葉だ。でも確かにそれは、ゼンの言う通り、特殊な使われ方をしている。こういう疑問を持つ人物が、とても多く描かれている。
ゼンは、山で二人きりでずっと過ごしてきて、里に降りてきたのは最近。世の中の常識は、旅をしながら身に着けている。その設定が、この作品を非常に面白くしている。ゼンは、ひねくれてるのではない。世の中をナナメから見たいと思っているのではない。ゼンにとっては、多くのことが純粋に疑問なのである。しかし、ずっとそういう社会の中で生きてきた人間には、それが分からない。気付けない。ゼンの視点で物事を見て、初めて、それが変わっていることなのだ、と気付かされる。
森博嗣の多くの作品で、このような視点が登場するが、このシリーズはそれがとても色濃く表れているように思う。

『いろいろなものが無駄に見えるが、それが作られたときには、作るという意味、作るという価値があったのかもしれない。ただ、それが残っているだけなのだ。建物も仏像も庭も、人が作るものは、それが作られているときには生きているようなものだ。どんどん成長する。しかし、完成してしまったときには、もう死んでいる。したがって、屍を見ても、そのものの価値はわからないのかもしれない』

『誰より強くあっても、すべてを知っていても、死ねば消えてしまう。それなのに、何故求めるのか。何故、自分でなければならないのか。誰かが強くなり、誰かが知れば良いではないか、何故、自分なのか』

感想

侍としてのゼンは、時と共に成長していく。いや、この表現は、正しくないかもしれない。正直読者には、ゼンの成長を捉えることは出来ないだろう。剣道などやっている人であれば、多少は想像出来るかもしれない。あるいはそれは、武道全般に言えることかもしれないけど、それでもゼンの成長を捉えることはとても難しいだろう。
なにせ、恐らくその成長は、ゼン自身にも的確には捉えられていない。高みにいる者にとっては、ほんの僅かな成長であっても価値がある。しかし、その成長はあまりにも僅かであるために、自分自身であっても的確に捉えることは難しい。もしその成長を捉えることが出来ている人物がいるとすれば、それは著者である森博嗣ぐらいなものかもしれない。

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