世界地図の下書き(朝井リョウ)の書評・感想

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世界地図の下書き

事故で両親を亡くした小学生の太輔は、親戚の家での生活を経て、「青葉おひさまの家」という施設で生活をすることになった。不安でいっぱいの日々を和ませてくれたのは、同じ班の仲間たちだった。
ママの話ばかりするちょっとお高くとまった美保子、同じクラスの身体の大きな男子に怯える淳也と、淳也の妹で常に元気ハツラツな麻利。同じ小学生のこの三人と、もうひとりちょっとお姉さんな佐緒里。学校や日常生活の中で、辛いこと、考えたくないこと、逃げたいこと、悲しいこと、そういうことはたくさん起こる。太輔は、昔のことを思い出しながら、辛い気持ちを蘇らせたりもする。けど、みんなでいると、力が出てくる。一人じゃないって思える。太輔は少しずつ、施設での生活に馴染んでいく。
3年前、最後の「蛍祭り」が開かれたきり、中止になってしまった。この町の伝統行事であった「願いとばし」という、ランタンを飛ばすイベントも、一緒になくなってしまった。太輔たちは、高校卒業と共に施設からいなくなってしまう佐緒里のために、なんとか「蛍祭り」を復活させようと奮闘するが…。
というような話です。
さて、まずちょっと厳しいことを書こう。
本書は朝井リョウにとっては、一つの挑戦だっただろうと思う。何故そう思うのかというと、これまでの作品とは違い、小学生という子どもを主人公に据えているからだ。基本的に朝井リョウは、朝井リョウと同年代の人たちを描いてきた。これまでも、子どもは描いていたこともあったはずだ(「星やどりの声」で、小学生ぐらいの兄弟がいたように思う)。ただ、全編を通じて小学生を描くというのは、本書が初ではないかと思う。
で、その挑戦が成功しているかというと、ちょっと評価に迷うところではある。
本書を読んではっきりしたのだけど、僕は朝井リョウの「主人公たちの内面を主人公自身が見つめ、それを言葉に置き換えていく」という部分に惚れているのだと思う。これをやらせたら、朝井リョウは抜群に巧い。特に、朝井リョウと同世代の人々を描かせたら、天才的ではないかと思っている。
朝井リョウがこれまで描いてきた人物たちは、高校生や大学生など、やはりある程度「自分の言葉」を持っている人になる。自分自身を客観的に見て、それを自分の内側で言葉に置き換えることが出来る、そういう年代の人達を描いてきたと思う。
しかし、小学生にそこまでのことが出来るのか。本書を読みながら、どうしてもそんなことを考えてしまった。
もちろん小学生にだって、「感じること」は出来ると思うのだ。自分が生きている世界の中で、ありとあらゆることを感じていることだろう。そこは、大人と大差はないと思う。子どもだからといって、大人ほどには感じられないはずだ、なんて思っているわけではない。
でもそれを言葉に置き換えることになると、どうだろう。そこまでのことが、小学生に出来るものだろうか。
太輔視点の物語を読んでいると、こういう二つの感情が襲ってくる。
「子どもにしては自分の内面を表現出来過ぎているな」
「子どもらしい表現だから、朝井リョウの作品としては物足りないな」
場面に応じて、この二つの感情のどちらかが去来する。

感想

小学生たちはそれぞれ、それぞれの思いを抱きながら、困難な作戦に突入していく。「子どもを生きる」というのは、圧倒的な制約の中で毎日を過ごすということだ。その制約を意識しないで生きていける環境は、とても恵まれている。太輔たちには、普通以上の制約があった。それでも彼らは、誰かのために、自分たちだけの手で、あらゆる困難を乗り越えて行こうとする。その必死さ、真っ直ぐさ。子どもにしか発揮することが出来ないかもしれないパワーを折り重ねていきながら、太輔たちはエンドロールに向けて疾走していく。彼らが最後にたどり着く美しい光景を見て、なんだか羨ましいなと思った。その場にいる全員が、羨ましいと思った。
朝井リョウの作品と捉えてしまうと、どうしても物足りなさは残る。でも、自分の得意な武器を捨てて新しい挑戦をする姿勢は素晴らしいと思うし、朝井リョウの作品だと思わず純粋に作品を捉えれば、素敵な作品だと思う。

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