初代 竹内洋岳に聞く(塩野米松)の書評・感想

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初代 竹内洋岳に聞く (ちくま文庫)

本書は、2012年5月に、日本人として初めて「14座制覇」を成し遂げたプロ登山家が、生い立ちから12座達成までを語った作品。
世界には、8000メートルを超える山が14座。そのすべてを登るというのは、登山家にとって一つの到達点だ。過去様々な形で歴史を刻んた日本の登山家もたくさんいるが、竹内洋岳は、日本人初の14座完全登頂という形で名を残した。

『山田昇さんは、当時、最強のクライマーといわれていましたし、私よりも何倍も強かったと思います。植村さんと同じマッキンリーで、1989年に亡くなられましたが、もし、あそこで死ななければとっくに14座登っていると思う方です。その山田昇さんが9座まで登ったときに篤さんに「9座を上ってわかったけど、14座というのがこれほど大変だとは思わなかった」といおっしゃったそうです。それはほんとによくわかりますね』

14座完全制覇というのは、凄い偉業なのである。

『靴下一枚にも拘るのは、私たちの登山というのは、100パーセントじゃないと登れないからです。99.99パーセントでは登れないんです。何かが一つでも欠けたら登れないと思うんです』

本当に、壮絶な世界だと思う。それほど辛くても、著者は山に対してこういう思いを抱く。

『山は、本来はただの地球のでっぱりだったのが、そこに人が行くことで、地質学的な歴史だけではなくて、全然違った意味の歴史をもって、どんどん魅力を増すんです』

高校・大学と山岳部に所属したが、その時の技術が今に活かされているわけではないと語る。登山の技術や常識は、時代と共に大きく変化し、大学山岳部で教わっているものが既に古いということもよくあったという。
とはいえ、立正大学の山岳部に所属していたことが、プロ登山家になる一つのきっかけだっただろう。大学でヒマラヤ登頂を掲げて一つの登山隊を出し、それに竹内洋岳も参加したことが大きなきっかけだったのではないかと思う。
著者が大学時代の日本の登山は、極地法と呼ばれるものが主流だった。これは、組織で山に入り、その中のごく一部の人間だけが頂上まで行けるという、分担制の登山だ。どうしてそれが主流だったのか。それは、日本からヒマラヤまでが、様々な意味で「遠かった」からだ

『いまの私の登山は、登れなければ、また来るだけの話なんですけど、日本の登山隊の登山では、クレバス一つ通れなかったからって帰るわけにはいかなかったわけですよ。それなら用心のために梯子を持って行こうって話になっちゃうんです。失敗が許されないわけです。次はもういつになるかわからないわけです。
いろいろな寄付をもらってしまったり、みんな仕事を辞めて参加していたわけですよ。後がないんです。また来るとかって引き返すのは無理なんですよ。
絶対失敗しないための方法だから、余計お金もかかるし、だから逆に失敗も許されなくなってくるという。絶対けが人も出せないし、死人も出せない。別に私たちもいまやっている登山でも、死んでもいいとか、けがしてもいいとか思っているわけではないんですけど、もうそれらの優先順位が違ってきちゃうんです』

だからこそ、極地法という、あらゆる準備を重ね、タクティクスを組み、そして全員は無理でも、確実に一人は頂上に辿り着ける。そういう登山が主流だったわけです。
竹内洋岳がやっている登山は、アルバインスタイルと呼ばれます。基本的に一人で登る、というスタイルです。竹内洋岳は、割と酸素ボンベを持たずに登っているようですが、酸素ボンベを持たないことがアルバインスタイルの条件なのかどうかはわかりません。

感想

『それが、私がアルバインスタイルを取り入れた理由のひとつですし、コンパクトなチームで登るようになった大きな要因ですね。だってね、このやり方だと、登頂して下りてきても、嬉しさを表現できないです。
登らなかった人たちに、悪い、申し訳ないという気がしちゃうんです。
最初からC4で待機してチャンスを待つというわけにもいかないんです。そういう人たちは、そこまでも上がってこられないわけです。それで動ける、登れるのだけど登れなかった人たちが荷下げを始めるわけですね。
体調が悪いとか、全然、及ばない人は寝ているしかないんですけれども、動けて、本来登れるだけの実力はあるんだけど登頂者に選ばれなかった人たちは、登頂できないとわかっているのに、上に向かって行って、装備の荷下げを始めるわけです。これはどう考えても、私は不合理だと思いますね』

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