田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。

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対訳 21世紀に生きる君たちへ

司馬遼太郎先生が晩年、21世紀の担い手となる子供たちに向けて書いた文です。

本文 ※文字制限のため一部抜粋です。

 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
 君たちは、ちがう。
 21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

 もし「未来」という町角で、私が君たちをよびとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。

 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。

 さて、君たち自身のことである。
 君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
───自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。
 そして、すなおでかしこい自己を。
 21世紀においては、特にそのことが重要である。
 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。
 人間は、助け合って生きているのである。
人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

 助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
 他人の痛みを感じることと言ってもいい。
 やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
 みな似たような言葉である。
 私たちはそれを身につけねばならないのである。
 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。

 鎌倉時代の武士たちは、
「たのもしさ」
ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
 もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。

 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。

感想

知人の子供が学校に行くようになり、「当時わからなかった事が、今判るようになって子供の教材が面白い」という話題になって、どうしても国語の教科書に載っていたあの司馬先生の文を読み返したくなって買ってしまいました。大人になり21世紀になった今、読み返してもやっぱり司馬先生は名文だったなぁ、と。自己責任がねじ曲がり、司馬先生のおっしゃる通り、自己の確立、いたわり、優しさを見直す時が来ているのではないかと思いました。

短く気軽に読めますし、対訳の英語が英語の勉強にもなります。

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