佐々成政を利用して宣伝効果を狙った豊臣秀吉のプロモーション力

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英傑の日本史 激闘織田軍団編 (角川文庫)

佐々成政を利用して宣伝効果を狙った豊臣秀吉のプロモーション力を紹介します。

佐々成政とは

戦国時代に織田信長に使えた戦国武将。猪突猛進型の猛将として知られている。

佐々成政の宣伝効果

佐々成政は「戦国武将」が天職でした。御伽衆などというたいこもちは肌に合わなかったのです。秀吉も「鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス」と、本能寺の変後、成政を武将として使ってみたのです。九州平定に、一部隊を預けてみたのです。

佐々成政は、抜群の功をあげました。そこで秀吉は成政を肥後国(熊本県)の領主にしました。これには天下の人々が驚きました。現に、九州最強の島津氏ですら、恐れをなして降伏したのです。この九州平定の最大の功労者は、総大将の秀吉自身です。これだけの大軍を集めたということで、既に勝敗は決していたのです。

しかし、秀吉は自分を憎んで二度まで抵抗した成政に、肥後一国を与えたのです。これは秀吉ならではの宣伝効果も意識していたのです。秀吉にどんなに反抗した人間でも、

「前非を悔いて懸命に働けば報われるぞ」

ということを示したのです。この後、秀吉は関東平定に向かうが「わしに逆らうな、決して悪いようにはせぬ。成政を見ろ。いまや五十万石だぞ」という「言葉」は敵の切り崩しにも効果があったのです。

もしくは、秀吉は、朝鮮出兵(大陸侵攻)の折には成政を先鋒として使うつもりだったのかもしれません。成政失脚後、秀吉は肥後国を二つに分割し、腹心の加藤清正と小西行長に与えて先鋒としているのです。

また、成政に肥後国を与えたことを「秀吉の罠」だったのかもしれません。肥後は実は統治が難しい国でした。大きな領主というものがなく、多くの国人(地侍ともいう)に分割統治されていたのです。熊本人には「肥後もっこす」がいます。命をかけても権力に逆らい自分の意地を通す人々のことです。その「肥後もっこす」を統治するため、成政が選んだのは「力」でした。検地を強制的に行い、怒った国人連合が一揆を起こすと、これを徹底的に叩きつぶしたのです。

しかし、この戦に負けたわけではないのに、秀吉は成政から領地を召し上げ、失政の責任を取らせて切腹させました。享年五三でした。「秀吉の罠」というのは、秀吉が最初からこの結果を見越していて、わざと肥後国を与えたという解釈です。しかし、成政が功をあげればあげるほど秀吉のステータスは高まるのです。この切腹は成政と熊本のぶつかりあいが招いた不幸な偶然なのです。

感想

佐々成政は好きな戦国武将です。メジャーじゃないマイナー戦国武将に興味がある人は本を読みましょう。

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