信長の経済力よりも戦国時代の寺社がすごい!

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織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)

鉄甲船は信長のマネー戦略の最高傑作

信長は、軍事的な発明をいくつもしているが、その中でも最高傑作といえるのが、鉄甲船である。鉄は、当時、貴重品だった。刀など鉄で造られたものは、非常な貴重品だった。その貴重品を船の全面に貼り付けるというのだから、どれだけの費用がかかったことか。

信長は鉄砲の威力に早くから気づいていた

堺と並んで、鉄砲の一大産地だったところに近江の国友村がある。国友村は古代、朝鮮から帰化した鍛冶職人などが住み着いたところで、いわば当時の日本における先進工業地域だった。  戦国時代、ここに鉄砲が伝わり、それはすぐさま製品化された。そのため、戦国時代後半では、国友村は鉄砲の一大製造地となったのだ。この国友村の鉄砲の記録である『国友鉄砲記』によると、天文一八(一五四九)年七月に信長が鉄砲五〇〇挺を注文したとある。天文一八年というと信長は一五歳のときのことなので、

実は武田信玄は鉄砲の権威者だった

武田家は長篠の戦いで信長の三段銃でまけている。しかし、武田家の軍記である「甲陽軍鑑」には一五四八年、信玄と信濃の村上義清が上田原で戦った際に、「信玄軍は五〇人の足軽に鉄砲を持たせていた」と記されている。一五四八年というと、信長はまだ一四歳であり家督も相続していない時期である。信玄はそのときにすでに戦場に鉄砲を持ち込んでいるのだ。種子島に南蛮船がたどりつき鉄砲がもたらされたのが一五四三年なので、それからわずか五年後ということになる。

延暦寺は全国に領地(荘園)を持っていた

延暦寺はどうやって大財閥になったのか?
まず挙げられるのは、その領地(荘園)の広さ。中世から、寺社は農地の寄進を受け、それが荘園となっていた。また、比叡山は古代から貸し金業をしており、借金の担保で土地を得ることもあった。その荘園の広さが半端ではなかったのである。比叡山の荘園の数は二八五カ所を数える。

比叡山の古記録は信長の焼き討ちのときほとんど失われており、荘園の記録も多くが不明になっているにもかかわらず、これだけの数の荘園が判明しているのである。実際の数は、それをはるかに超えていた。しかも比叡山の荘園は、近江や近畿ばかりではなく、北陸、山陰、九州にまで分布していた。現存する記録から見るだけでも、近江の荘園の四割、若狭の三割は比叡山関係のものだったと推測される。

比叡山は農地だけではなく、京都の繁華街にも広い領地を持っていた。京都・五条町に三ヘクタールもの領地を持っていた。これは後醍醐天皇の二条富小路内裏と足利尊氏邸を合わせたものよりも、さらに広いのである。当時の京都というのは、日本の首都であり、日本一の繁華街でもある。そこに三ヘクタールもの土地を持っているのだから、地代だけで相当な額である。

また広大な領地を持っていたのは比叡山だけではない。ほかの寺社も、日本全国に相当な荘園を持っていた。たとえば紀伊(現和歌山県)では、水田面積の八~九割が寺社の領地だったとされている。また大和(現奈良県)では、興福寺、東大寺、多武峰、高野山、金峯山領でない土地はないというほど。為政者にとって、寺社は相当にやりにくい存在だったはずである。

感想

信長の本なのに戦国時代の寺社のすごさにびびる。戦国好きにはおすすめの本ですね。

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