難攻不落の城「高天神城」

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戦国の城 (学研新書)

高天神城は山城

大井川の南西、遠州灘に近いところに位置し、牧ノ原台地と小笠山陵にはさまれた独立丘陵で、標高132メートルの鶴翁山を中心に、放射状にのびるいくつかの尾根と、尾根にはさまれた谷を巧みに使った城。麓からの高さ、すなわち比高はおよそ104メートルで、100メートル以上を山城の範疇に入れているので、ぎりぎり山城に分類。

高天神城なぜ難攻不落の城なのか?

東海道(国道1号線)からも、浜街道(国道150号線)からも離れていて、交通上の要衝でも何でもない場所にこの城が築かれたのは、独立丘陵だということと、見晴らしのよさが大きな理由だったと思われる。それとともに、ちょうど、尾根がやつでの葉のように入り組んでおり、谷が入りこむ形の複雑な地形で、防御を主体とする山城にはうってつけの場所だったといえる。しかも、その周囲には、小笠川などの中小河川が流れ、天然の堀となっていて、守るに守りやすく、攻めるに攻めにくい城ができあがったのである。 高天神城は、東峯と西峯という二つの部分からなっていた。一つの山の中に、二つの城をドッキングさせた形です。

小さな尾根が櫛の歯のように出っぱっており、これは、軍学者のいう「横矢掛」にうってつけの地勢であった。城を攻める場合、攻める側は、急な断崖のようになっている斜面をそのまま攻めのぼることはできず、いきおい、谷の奥に進み、そこから比較的ゆるやかな斜面のところをみつけ、そこにとりついて攻めのぼることになるが、高天神城の場合、橘ヶ谷、鹿ヶ谷、地境ヶ谷などの谷が入りこむ形となっていたため、攻める進路は尾根に築かれた曲輪にはさまれた格好になる。つまり、両サイドから矢とか鉄砲の攻撃をもろにうけたわけである。高天神城が「難攻不落の名城」とうたわれた理由の一つ。

高天神城は今川が築城

高天神城については、江戸時代に書かれた軍記物として『高天神軍記』というものがある。それによると、築城者は今川了俊だという。史料的にはっきりしているのは、戦国大名今川氏の初代になる今川氏親の時代、福島左衛門尉助春という重臣がおり、たしかな古文書でこの福島助春の高天神城在城は確認されるので、一六世紀初頭の築城と考えられる。今川氏親が駿河から遠江に版図を広げるとき、遠江侵攻の拠点として築かれ、その後も今川氏によって駿府今川館の有力支城の一つに位置づけられたもの。

その後、城主は福島氏から小笠原氏に代わっており、小笠原与八郎氏助が城主となっている。ところでこの小笠原氏助であるが、『高天神軍記』をはじめとする各種軍記物はどういうわけか名乗りを長忠としている。小笠原氏助は今川義元の重臣としてこの高天神城をまかされていたが、周知のように、義元が永禄三年(一五六〇)五月十九日の桶狭間の戦いで織田信長に討たれたあと、義元の子氏真はそれまでの今川領国を維持することができず、とうとう、永禄十一年(一五六八)十二月、東から武田信玄が、西から徳川家康が今川領に同時侵攻し、結局、氏真は駿府今川館を捨て、今川氏は滅亡する事態となっている。

このとき、高天神城主だった小笠原氏助は戦わず家康の軍門に降っているのである。つまり、小笠原氏助は今川氏を見限り、徳川方に内応した形で、家康もその功を賞し、小笠原氏助にそのまま高天神城主としての地位を安堵したのである。つまり、ここで、高天神城は今川氏の城から徳川氏の城となった。

感想

特に好きなお城である高天神城についてまとめました。戦国好きの人は楽しんで読めるお城雑学本です。

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