人の集まりはどこから始まったのか? 人のコミュニティとは?

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ソーシャルエコノミー 和をしかける経済

人の集まりは「ムラ」と「都市」から始まった

ネット上ではよく「◯◯住人」や「◯◯民」という言葉が使われる。ツイッター民やフェイスブック民といった表現だ。2ちゃんねる民とフェイスブック民はだいぶ違うし、ツイッター民ともちょっと違う。さらに、ニコニコ動画の中でも「踊ってみた民」だとか「歌ってみた民」と利用者の集まりをさすことがある。あたかも、「そんな地域に住む人たちの集団」があるかのように。それぞれが「民」族的な特質を持ち、それぞれに交わり合っている。

古来、人の集まりとは「地域」とか「地縁」に結びつけられて語られることが多かった。ソーシャルで人の集まりをさすのにも、その名残が現れているのだろう。ネット上に、みんながふさわしい場所を持つようになる時代。ネット上に「帰属場所」が存在するし、「民」としての誇りも現れている。

ムラは、地域に根差した共同体=地縁コミュニティとされる。それに対して、都市は独立した「個」の集合体=ソサエティとされる。「個」とは、いうまでもなく個人のことだ。20世紀にムラから都市へ人口が流動し、ソサエティ化が進行した

まず《人の動き》。ムラは固定的で、都市は流動的だった。《時間スパン》。ムラは長期的で、都市は短期的だった。《人間関係》。ムラは基本的に地縁関係なので、みんな顔見知りだった。都市は、基本的に赤の他人同士、個人の利益に基づいた契約関係でつながっていた。《参加・不参加》。どのムラに生まれるか自分の意志では決められないし、ムラはなにごとにも参加せざるを得ない「参加」強制型だった。都市は、「参加」自由形だった。《ものごとの優先順位》。ムラは個より集団で、都市は集団より個だった。《長所・短所》。ムラは、そこにいれば安心で一体感や所属意識、絆が感じられた。一方で、しがらみが多くて疲れたし、圧迫感があった。メンバーも固定されていたから、閉そく感も強かった。都市は、自由で開放的なものの、人間関係は希薄。孤独感がつきまとっていた。

日本のソーシャルは遅れているのか

実名でオープン、実名でクローズ、匿名でオープン、匿名でクローズ、そのすべてが必要とされ続けていくのではないか。なぜなら私たち日本人は、常に自分が何の「和」であるかを意識してしまう国民だから。欧米では「個」が基本。彼らにとってどこの会社の人間かは、「個」を色づけるものでしかない。でも日本人の場合は、まずどこの人間かで「和」の人格が規定される。

日常コミュニティの閉鎖性やしがらみにうんざりしながらも、それでも私たちはムラ的な絆を求めてしまい、コミュニティ内に和が醸成されるほど高まりあえる構造を好む。しがらみにもなりやすいものを、逆に共同体としてのエネルギーに変えていくのが日本的な「和のソーシャル」だ。一方、「洋のソーシャル」というのは、もっと「個」のサバイバルゲームに近い。自分を強くし、生き残りやすくするために人間関係を活用する。どちらにも一長一短があり、ともに新たなソーシャルの可能性を示す。世界中で、それぞれの国にあったソーシャルな事例が出はじめてきている。「和のソーシャル」がもたらすものに、そろそろ、私たちも自覚的にならなければいけない。

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