己のためではなく、他者のために生きる「武士道」を貫いた八重

2773views飛立知希飛立知希

このエントリーをはてなブックマークに追加
日本人の魂と新島八重(小学館101新書)

幕末の戊辰戦争でスペンサー銃を構えて戦った女傑がいた。後に同志社大学創設者の新島襄の妻となる新島八重である。
本書は会津藩の戦いから新島襄との出会い、日本人初のプロテスタント教徒同士の結婚。そして襄没後に日清・日露戦争の篤志看護婦長となり、晩年は茶道の師範代として幕末、明治を生き抜いた八重の激動の人生から、今日の日本人の魂再生のヒントを探った試行の一冊だ。

八重に最大の影響を与えたのは、開明的な兄の山本覚馬だった。覚馬は日新館でのすべての武芸において奥義に達し、砲術を通してさらに学問を深めた。そんな兄を尊敬し、砲術を学びたいと欲する八重に、覚馬は女であるからといって排除せずに勧んで指導したという。
1868年に戊辰戦争が開戦し、八重は覚馬に習ったスペンサー銃を手に、男装で参戦した。結果的に会津藩は大敗したが、生き残った八重は覚馬に導かれて教育とキリスト教の道へ入り、明治という新たな時代を迎える。

八重の夫となる新島襄は1864年函館から密航し、渡米した。そこで洗礼を受けてアンドーヴァー神学校で学び、アメリカから帰国して1875年に同志社英学校を開校したのだ。学校創設にあたり奔走していた㐮が槇村正直に援助を求めた際、「どのような妻を迎えるのか」と尋ねられた襄。その答えは「亭主が、東を向けと命令すれば、3年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」というものだった。そんな㐮にとって、鉄砲を担いで男装して戦いの前線に立った八重は理想の女性だった。同志社英学校の教師デイヴィスから洗礼を受けた八重は、㐮と日本人初となるキリスト教式の結婚式をデイヴィス邸であげた。
おしどり夫婦だった八重と襄。しかしわずか十四年で八重は㐮と死別してしまう。

未亡人となっても、八重はすぐに第三の人生の扉を開き時代を突き進んで行った。㐮を亡くした年の4月に八重は日本赤十字社の正社員となる。1894年の日清戦争と1904年の日露戦争で篤志看護婦の陣頭指揮を取った。この活動により、八重は勲七等宝冠章や勲六等宝冠章を受賞している。
また、八重は晩年、茶道を極めた。1910年には「宗竹」の茶名を預かり、自宅に「寂中庵」という茶室をしつらえて、若い人たちを指導し、一碗の茶でもてなしたという。

日本人の寛容の精神が色濃く残り、「弱者を思いやる」という人類普遍の価値観の備わった会津。その風土は八重の他、「社会福祉の母」と呼ばれた瓜生岩子をはじめ、社会奉仕や公の教育を仕事とした会津の人材を数多く輩出している。
著者は「自分の身を捨てて人のために生きることが、果たして自分にもできるでしょうか」と自問する。立派な日本人とは「己のためだけではなく、他者のために生きる、今のためだけではなくて過去と未来のために生きる」ということだと断言する。「自分はなぜ、今ここに生きているのか」「自分に与えられた使命は何か」「このためになら死ねるというものを探し続けて生きるということ」
そうした「武士道」を実践したひとこそ、新島八重だと結んでいる。

感想

過去日本史の中で新島襄は八重よりも有名だが、新島八重が貫いた「武士道」は女性の社会的地位が躍進する現代の先駆けとして受け入れやすいだろう。女子教育を全国に先駆けて行った会津から八重の他、社会奉仕や公教育、政治に携わる人材などが多数輩出されていることは知らなかった。

関連まとめ

本のまとめカテゴリー


コメントを書く