相撲がわかる本「角界モラル考」の書評・感想

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角界モラル考―戦前の大相撲は「おおらか」だった

角界は「神聖」なものなのかと思ってしまうが、本書を読むと「高潔」かつ「神聖」な存在の相撲のイメージが崩れる。しかしなぜ「神聖」で「高潔」なものになっていったのかがよくわかる一冊が本書である。

Ⅰ.「感情表出パフォーマンスと礼儀」

かつて朝青龍が優勝を決めたとき、ガッツポーズを決め、角界の内外からやり玉に挙げられたことは記憶に当たらし。もっとも相撲ではパフォーマンスは御法度なのかというと、戦前はそうではなかったという。たとえば、
・ガッツポーズ
・真っ赤な締め込み
・ヒョットコ踊り
・電気燈(禿頭に電気燈を当て光るようにしたことから)
などが挙げられる。戦後を中心に挙げているが、ほかにも感情の噴出するシーンは戦前では当たり前のようにでており、新聞でも話題に挙げられていたという。
パフォーマンスはガッツポーズだけではない。たとえば高見盛の立ち会いに向かう際の仕草や一昔では水戸泉の塩撒きにしてもある種の「個性」をアピールしていた。

Ⅱ.「物言い~情実裁定と曖昧な決着」

昔と今とで大きな違いがあるものとして、一つに本章で紹介する「物言い」がある。
今となってはそれ自体一場所に1回あるだけでも珍しいもののようだが、かつては何度も物言いがつけられ、審判方の審議が1時間以上にまで及んだことさえあった。

Ⅲ.「大相撲はスポーツにあらず~取組(競技)におけるモラル」

立ち合いの時間、さらにそれまでの時間が厳しく制限されたのは昭和初期の頃であり、それまでは目立った取り決めが無く、罰則も当然存在しなかった。
さらに最初に書いたように近年話題にあがり、それにより引退を迫られた力士も数多くいた「八百長」に関しても、明治~昭和初期にかけては「誰もが認めていた」ものであった。横綱が八百長を肯定する発言も目立ったほどである。

Ⅳ.「力士の芸人性~緩やかな就業倫理と生活倫理」

最近では横綱でも休場するとなると「引退するのでは」という話が出てくる。事実それによる横綱審議委員会からの「引退勧告」も出ることもざらにあるのだという。
しかし歴代横綱の中にも休場ばかりする力士もいた。怪我による休場もあれば、「雨だから」「雪だから」「気が乗らないから」という私情により勝手に休場する力士もいた。(今のご時世では、それだけで解雇になってもおかしくないが)

Ⅴ.「祝祭空間としての国技館」

国技館は現在で言うと両国にある「両国国技館」、戦後間もないときには蔵前にあったため「蔵前国技館」と名付けられた。相撲のみならず、プロレスの試合でもよく使われており、「格闘技の聖地」「相撲の聖地」として名高い。
しかし「国技館」と銘打たれた場所は明治時代からも存在した。1909年から1982年まで存在しており、ちょうど現在の両国国技館に当たる場所に建てられており、名前も「(旧)両国国技館」だった。

Ⅵ.「厳粛化される大相撲~天皇制ファシズムの中で」

現在のような「神聖化」になるきっかけについて本章では述べている。史料としているのが昭和10~20年が中心であり、翼賛精神により、「大相撲は神聖なもの」として認識させられ、モラルも厳格なものとなっていったという。

感想

本書を読んでいるとき、大阪市長の橋下徹氏が文楽を鑑賞し、文楽について批判をしながら、新たなことを提案した。それに対し文楽の重鎮がそれについて困惑するというニュースを見た。「保守」と「革新」は国家や政治のみならず、文化・芸術にも往々にしてある。
角界にもそういった「革新」の波は出てきて、その波をくい止めることは誰にもできないだろう。
さらに本書を読んでふと疑問に思ったことがある。「相撲は「神事」」と言われるが、なぜ「神事」と呼ぶように、「宗教」という形で帰依されたのだろうか。温故知新であるとするならば明治・大正時代はおおらかで愛嬌があったことも目を背けるのだろうか。
そして「相撲」とはいったいどのような存在なのだろうか、その疑念がますます深まった一冊であった。

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