労働論理と消費社会「新しい貧困 労働消費主義ニュープア」

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新しい貧困 労働消費主義ニュープア

労働倫理

産業か初期の段階でヨーロッパ人の 意識に芽生え始めた「労働倫理」は、労働者が働き、報酬を受け取るうえでもっとも根源的な価値観だろう。労働倫理の「何かを得る為には、それを得るた めに労働者の側が先に“労働”という資本を与えなければならない」という前提には同意する。「働かざるもの食うべからず」という言葉はまさにこの精神観の 表れだし、その言葉はおおむね正しいと思うからである。ただ、金銭的動機づけで労働をさせる労働倫理は徐々に経営にはあわなくなり、消えてゆく。結局労働 倫理は本当の目的だった、労働の道徳的な向上能力喚起は達成できず、かわりに残ったものは「資本主義の精神」ではなく金銭的な報酬をもって人間の価値や尊 厳を評価する傾向である。極端な二元論は必ず危うさを秘めていると思う。アメリカは正義と悪の論理が大好物だ。正義が悪を退治するという構図が何度戦争を もたらしただろうか。日本の二項対立構造の報道は真に見えなければならないものを覆い隠してはいないか。「働くものは善で、働かないものは悪である」とい う労働倫理の二元論は、労働倫理にその目的達成の失敗をもたらした。

消費社会

他に興味深かった点は、消費社会についての指摘 である。著者が引用した「欲望は満足を求めない。逆に、欲望は欲望を求める」というマーク・C・テイラーとサーリネンの言説。この言説は生産者からみた消 費者のあるべき姿を的確にとらえていると感じた。サプライチェーンを途絶えさせず、次々と商品を買わせるには更なる欲望を誘発するような商品でなければ、 たちまち消費者はどこかへ行ってしまうだろう。そして、前回呼んだ『街場のメディア論』での内田樹の言説と関連した興味深い指摘があった。「市場は彼らを 拾い集めて消費者に仕立て、(中略)消費者は、その後市場に足を運ぶたびに、自分たちこそ命令する側だと錯覚してしまう」。消費者が消費者であるためには 逃れられない性向なのだろうか。しかしこの消費者の“思い込み”あってこその市場であり、そのような消費者がいなければ、市場に出回る商品の質はよくなっ ていかないだろう。また著者は、富と収入の最大の意味は、消費者の選択の幅を拡大することであると述べている。消費者の思い込みと選択肢の拡大こそ市場を 活性化させるための起爆剤になるようだ。むしろそれらがなければ市場は寂れていくに違いない。

メディアと関連させてみる

メディアに関して同じことが言えるだろうか。消費者の思い込みはコンテンツにケチをつけ、メディア批判へとつながる。選択肢が広がれば、その分批判して、 “よくしたくなる”部分が増えるだろう。情報は扱いが難しい。有形の商品のように、安全か安全でないか、確実か確実でないかの基準がはっきりしないのが情 報だ。そんな情報に対して有形の商品に対する批判と同じような批判があてはまるだろうか。いくら批判しても、情報の安全性確実性を向上させるのは難しいこ とは確かだ。ただ、情報ではなく、それを発信するメディアに対してコミットすれば、「情報の真偽」ではなくても「情報をいかに扱うべきか」という点におい て改善を促すことはできるように思われる。
一辺倒な批判ではいけない。双方ともが、互いの状況をよく知ったうえで歩み寄るような努力が必要であ ろう。互いに批判しあっていては、互いが殻にこもってしまうような気がする。視聴者は情報が発信されるまでの過程を知り、発信者は視聴者に及ぼす影響をよ く考えなくてはならないのではないか。

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