弱者や被害者を勝手に代弁し、社会問題を断罪する「マイノリティ憑依」。その構造はいつ、どこで生まれた?

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「当事者」の時代 (光文社新書)

夜回りと記者会見

権力とメディアの関係は単純ではない。例えば警察(権力)と新聞記者(メディア)。記者会見のようなオモテの共同体がありながら、夜回りというウラの共同体が並存している。この二層レイヤー構造を使い分けることで、メディアは裏で権力と濃密な関係を保ちつつ、表向きにはアウトサイダーを気取れる。重要なキーワードは“市民目線”だ。

幻想の「市民」はどこからやってきたのか

客観中立を標榜するメディアにとって、“市民目線”は弱者の味方をアピールする手段。そのため、本来は興味がない市民運動もせっせと記事にする。だが、そもそも運動家は市民の中の少数派(周縁)だから、市民の代弁者とは言い難い。では、メディアが使う“市民”とは、誰を代弁しているのだろう?

1970年夏のパラダイムシフト

戦後の日本は敗戦による被害者意識が蔓延していた。が、べ平連の小田実が、被害者は加害者にもなりうることを指摘。この視点が、在日やアイヌなど見過ごされていたマイノリティの発見につながる。行き詰まっていた学生運動はこれに目を付け、マイノリティに対する差別を自己批判することで、緊張感を維持しようとした(70年の「七・七告発」)。だが、この加害者意識は、社会へ過剰に取り込まれてしまう。

異邦人に憑依する

平和を謳歌する日本で、革命思想を保つのは極めて困難だ。ならば、社会のアウトサイド(辺境)へ立ち位置を変えてみたら? すなわち、弱者への憑依。こうすれば、当事者としての苦悩から逃れられるうえ、汚れた社会を外部から断罪できる。この考え方がメディア空間に浸透。“異邦人としての庶民”という社会外部の幻想に仮託して、社会を見下ろし糾弾するようになる。

穢れからの退避

日本では、神性は外部に存在する。つまり、外部に立ち位置を変えるマイノリティ憑依は、神の視点を手に入れ、当事者としての穢れを振り払うという意味がある。

総中流社会を「憑依」が支えた

総中流社会は、マイノリティ憑依と相性がよかった。メディアが取り上げるマイノリティは奇特に描かれるため、「自分はそこまでひどくない」という安心感を与えてくれるから。しかも当事者性を要求しない(=自分自身の問題として考えなくてもいい)。かくして、権力に寄り添いつつ、一方では弱者に憑依するという、メディアの緩んだ二重構造が続く。

だが、メディアが仮託するマイノリティはそもそも幻想だから、リアルから乖離したまま。いまや日本人はその歪みを直視し、当事者としての穢れに直面する必要に迫られている。

当時者の時代に

マイノリティ憑依に別れを告げよう。当事者としての立ち位置を意識し続けなければいけない。ソーシャルメディアの勃興は、当事者性を維持しようと苦闘する人と、延々マイノリティ憑依を繰り返す人の新たな格差を可視化するのではないか。

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