「言葉を読むこと」と真剣に向き合う「切りとれ、あの祈る手を」

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切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

「言葉を読むこと」と真剣に向き合ったことがあるだろうか。

すべてのものに、ちょっと気の利いた一言を差し込むことができる。
それがなんの役に立つのだろうか。

堕落した情報があるのではない。情報そのものが堕落なのだ。

ジル・ドゥールーズの言葉からの引用
「堕落した情報があるのではない。情報そのものが堕落なのだ。」

さて、「情報」とは何だろうか。
「情報」、それは「命令」のことだ。
ハイデガーがそう言っている。

そう、みんな、命令を聞き逃してはいないかという恐怖に突き動かされている。
なぜなら、命令に従っている限り、自分は正しいと思い込めるからだ。

みんな、誰かもわからない誰かの手下になって、せっせと命令をかき集めて、
自分は間違っていないと思い込む。

誰かの命令に従っていることは、とても楽なことだ。
誰かの命令は、自分で変えることができないから。

そんな命令を、私たちは無視し続けることができるだろうか。

「読む」ということ

みんな、読むのが怖いんです。

他人の生身の「言葉」に、自分を直接に接続してしまったら、気が狂ってしまうから。

フィルターにかけて、情報に還元されたものだけを相手にしていれば、何も怖いことはないのだから。

そんな情報が、果たして「読む」といえることだろうか。

読むべき言葉とは

ニーチェの言葉より
「自分や自分の作品を退屈だと感じさせる勇気を持たないものは、藝術家であれ、学者であれ、ともかく一流の人物ではない。」

わかってしまったら狂ってしまうかもしれないくらいのものでないと、一流とは呼べない。

おわりに

ここにまとめたものは、「切りとれ、あの祈る手を」のごくごく一部に過ぎない。

「読む」ということを、「言葉」という存在を根底から覆す一冊。
テキストが溢れかえっている今だからこそ、読みたい。

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