「若者論」の変遷がわかる本「絶望の国の幸福な若者たち」の書評・感想

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絶望の国の幸福な若者たち

「俗流若者論」は古代ギリシャ時代から言われ続けており、今もまたそれが生き続けている。本書はその「若者論」の変遷、そして私たちの世代の「希望」と「幸福」を私と同い年の社会学者の視点から分析をしている。

第一章「「若者」の誕生と終焉」
そもそも「若者」という言葉はいつ頃から誕生したのだろうか。最初に「古代ギリシャ」の時代、ソクラテスやプラトンが活躍した時代と書いたが、それよりも遙か前、紀元前4000年頃に誕生したメソポタミア文明にまで遡るという。それから6000年もの間、「若者」と言う言葉が悲観的にも楽観的にも扱われ始めた。
では、日本はどうか。戦前より「若者」と呼ばれた訳ではなく「青年」という言葉か使われた。そして大東亜戦争を経て、「社会学」などで「若者」という言葉、そして「若者論」が叫ばれ始めたのは1970年代の頃から、悲観論を中心に議論が展開された。

第二章「ムラムラする若者たち」
「ムラムラする」というと性的興奮を催してしまうように見えてしまうのだが、著者のセンスはそう単純なものではない。簡単に言えば「ムラ社会」として内向きなグループや集団を作ることから「村々」をカタカナにして「ムラムラ」という表現を用いている。
内向きでありながらも社会貢献に前向きであり、かつ「嫌消費」でありながらも「幸せ」を覚える若者、それが私たちの世代である。

第三章「崩壊する「日本」?」
本章では「ナショナリズム」について論じているが、国のために殉ずる、もしくは国や自分の民族の為に戦うと言うような純粋な者ではなく、むしろ2010年に行われたワールドかっプや今年行われるロンドンオリンピックで、にわかに熱狂的に呼び起こす感情、すなわち「にわかナショナリズム」を論じている。
しかしこの「にわかナショナリズム」、日本に限らず「猫ひろし騒動」のようにオリンピックに出場できるのならば他国の国籍を持って他国代表として出場すると言うような考えが先進国を中心に出てきているため、本書が出てきてから変化があるのかもしれない。

第四章「「日本」のために立ち上がる若者たち」
私自身、休みの日は時々都心に行くことがある。そのときに目の当たりにするのが何らかの「デモ」である。政治的主張はするにはするが、「お祭り気分」でデモに参加する傾向にあるのだという。本気で社会を変える人も中にはいるが、むしろ「サクラ」と呼ばれるような参加者を巻き込みデモが膨れ上がっているのだろう。

第五章「東日本大震災と「想定内」の若者たち」
3月11日の震災で東北・関東を中心に「日常」が崩れた。
その日常が崩れた中で「ブーム」を作ったり、反原発・脱原発で盛り上がったり、と不謹慎だがオリンピックやワールドカップのような盛り上がりのような雰囲気を著者は察知した。
第六章「絶望の国の幸福な若者たち」
膨らむ赤字、安定しない雇用、重税化、進まぬ復興・・・
もはや「絶望」という他ないような状態の日本で、最も割を食らっている私たち「若者」。しかしその「若者」は「老人」たちのはけ口ではなく、むしろ私たちでしか見つけることのできない「幸福」を持っている。

感想

「~離れ」や「希薄化」「IT依存」など様々なことで「標的」にする私たちの世代。しかし価値観が違うのだから、所詮は「俗流」でしかない。
私たちの世代だからでこそ得られる「未来」と「幸福」それは岡本真夜が歌う「Tomorrow」の歌詞に出てくる花のようなものなのかもしれない。

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