プチャーチンと川路聖謨の友情。風雲児たち 幕末編 16の内容まとめ

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風雲児たち 幕末編 16 (SPコミックス)

「京の志士も公家も、水戸家の現実すらしらない。水戸様にはこの国を動かす力はない!力の後ろ立てもビジョンもなく何ができる。この計画は成功しようがない」(西郷隆盛)
「どいつもこいつもこのケンカのやり方をわかっとらん。こっちの手の内はブタだ。見せたらまけじゃ!チキンレースというのは我慢の子比べだ。耐え切れなくて先に動いたほうが負けになるんじゃ。うごかずに相手の出方を見極めんといかんのに頭に血のぼらせてこっちから動いたら負けるんじゃ。何が何でも密勅降下は差し止めえ」(岩倉具視)
「関ヶ原持ち出すならわしらの敵は山内の殿さんじゃろ?なんで中途半端に吉田東洋を目の敵にしとるんじゃ?お前の理屈はわからん」(坂本竜馬)

プチャーチンと川路聖謨の友情

日露修好通商条約の調印完了
(米→蘭→露→英→仏の順に3ヶ月で5カ国と通商条約)

「安政の五カ国条約」はどれも之も日本に降りな不平等条約であるが、ロシアだけは最恵国待遇の項目に「日本人も露国に対し全く同じ権利を持つ」と明記してある。この一項はプチャーチン個人の意思ともいわれ、不平等条約修正のフェーズに入ってからの力になる。

(プチャーチンは戸田において、日本人がディアナ号乗組員を救出してくれた恩を忘れずその功績を本国に伝えているし、プチャーチンの孫娘が明治に入ってから日本を親善訪問し、戸田村に大金を寄贈し、その後も定期的に戸田村を訪れている。プチャーチン家と川路家は150年後に再会し交友が続いているらしい)

島津斉彬上京計画の衝撃と斉彬死後の落差

斉彬の意思に反して、皇族や攘夷派が勢いづく事になった。

江戸では、斉彬の行動にキモを冷やされた井伊直弼が、反動で幕府権力強化のための攘夷派への取締を「勅許を取らずに事後承諾で」行う(今までだったら当たり前だが、この当時はこれも蛮行とされた)橋本左内はこの時点で自宅謹慎の仮処分。斉彬の娘で家定の妻だった篤姫は落飾出家させる。

薩摩国内では島津斉興(The・老害)が幕府からの反撃を恐れて斉彬が着手した産業施設が軒並み破壊。最新鋭スクリュー式蒸気軍艦も破棄、購入予定だったフランスからの蒸気軍艦も解約。ここでも時代の反動が起こる。

安政の大獄前夜

大獄の前から、主要な志士たちはみなマークされていた。

朝廷でも斉彬上京話で一度盛り上がった熱は治まらず、孝明帝が水戸藩に対して勅を発令(「戊午の密勅」)。内容は今までと変わらなかったが、謹慎中の水戸家に幕府を通さず直接文書を送ったことにより、天皇は幕府より水戸家を優先しているという意味を生んだ。結局これは幕府への宣戦布告であった。

関白九条の二股勅により、同じ内容のものが幕府にも届いたため、この時点で勅の問題は全て幕府に露見しており、他の藩も呼応しなかったため水戸は孤立。その後どの藩も行動を取れなかったため、「大名レベルではすぐに鎮火」した。

ところが、「志士のレベルでは天皇から密勅がくだされたという情報だけが伝わり抑えが効かぬレベルまで加熱した」、上と下の動きが分離したこともあり、容赦のない取締が行われることになった。(江戸時代は下の人間にはとことん過酷)

さらに、朝廷内では唯一の幕府支持派の関白九条尚忠(島田左近が取り込んだ)が孤立している状態で、彼を守るために、前代未聞の公家の側近たちの取締も強行する。
→九条尚忠は内覧職に復帰し、ある程度幕府が朝廷のコントロールを取り戻す

1年以上にわたる「安政の大獄開始」~初期段階

まず京都で取締開始。
中心人物とされた梁川星巌は大獄の数日前に病死。梅田雲浜らが逮捕。
水戸藩鵜飼父子から関係者が判明して取締が本格化。薩摩藩日下部伊三次も逮捕。
(橋本左内は斉彬上京挫折段階で自宅謹慎処分を受けている)

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