田沼意次の老中就任。風雲児たち (5)の内容まとめ

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風雲児たち (5) (SPコミックス)

「士農工商とは言いながら士農は頭打ち、それならわたしは工商に賭けてやる。この国を少しでも住みやすい国にするために」

1772 田沼意次の老中就任

吉宗の倹約政治はたしかに幕府財政を立てなおした。あの時はたしかにそれがまず必要だった。しかし倹約は即効性はあるが所詮消極的政策である。大阪商人が一手に握った米相場の前にはとても太刀打ち出来ない。吉宗もやっとそれに気づきコメの価格を抑えようとしたり花柄の質を落としたりして対抗しようとしたが、近代経済の感覚を持たぬ吉宗にはどうすることも出来ず、ゆっくりと幕府の力は衰える。吉宗の最後は権力への執着であった。

吉宗の執着の結果アホの家重、オッペケペーの家治が後を継ぐことになり、これを田沼意次が支えたが、彼が老中になった頃には吉宗時代から積もりに積もった幕藩制の傷口が一気に開いた。政治的にも、平和が続きすぎて一人の将軍を守るために老中が団結していた時代ではなくなり、御三卿派閥が権力の座を狙って争うようになっていた。この状態でさまざまな難題に対処するため試行錯誤しなければならなかった。

しかも目黒行人坂大火、大型台風、安永の大疫など相次ぐ天災がそのまま政治不信に結びつきますます苦戦する(6巻に続く)

「紅毛談事件」にみる、西洋に対する当時のお上の無知とそれゆえの過剰反応

先駆者ばかりにスポットを当てていると世の中がかなり開けているように見えるが、普通の人々にとってこの時代は外国なんて生涯無関係な世界であった。何か知識があるとすればそれはきりしたんばてれんでしかない。
通訳がオランダのいろいろな習慣や風土の話を聞いて、きりしたんのきの字もでない無邪気な内容の本を出版シたにすぎないのだが、お上を恐れぬ不届き者として凄まじい処罰を受けることになった。お上の人間があまりに無知で内容の吟味が出来なかったため、問答無用の取締となっていた。(なんだか表現規制問題に通じるものがあるね)
これは「解体新書」出版のネックにもなった。

1774年 解体新書完成

足掛け4年。
蘭語学と医学が当時の蘭学の要と信じ習うべき師も持たず逐語訳で達成。その結集。
漢方医との衝突を考え、途中で「約図」を出してワンクッションをおいたり、蘭学取締を避けるための根回しなど、幾多もの困難を乗り越えて出版。
出版後も漢方医など難癖の対処。

なぜあんなやつらに卑屈な態度をとるのですか?堂々と論破すれば良いのに、という弟子に対して「お前たちもあんな奴らだとわかるだろう?じゃそんな奴らをまともに相手にしたってこっちのレベルが下がるだけじゃないか。だいたい全五巻をきっちり読み終える時間もたっておらん出版直後にやってくるのにろくな奴はいない。わたしが本気で相手をしたい人間が訪ねてくるのはまだまだ先。お楽しみはこれからだ・・・」

1778 モーリス・ペニョヴスキーのいたずら手紙事件と幕府の対応

阿波→土佐→奄美大島→マカオへ出現。
この時点では各藩に対応のルールなし、幕府に届け出ることもなく厄介払い。

ペニョヴスキーの文書を押収したもの、国内に読める人間がいない。
蘭語の読み書きを禁止しておきながら、
事件が起きてから急いで禁止を解いても対応できない事態に。

しかも手紙の内容は悪戯であったが、国際情勢を全く知らないので
その真偽を判断できるものもなし、個人のいたずらで国が大騒動。
あげくに事なかれ主義で手紙を完全に黙殺することにした。

その後
・レザノフ事件(1806,1807)
・フェートン号事件(1808)
・ゴローニン事件(1811)

も同様の対応。民間や識者からの指摘には全く耳を貸さず、小さな事件には目をつぶり
外国から避難されるや初めて大事件が起こったかのようにうろたえるのは今も同じ。

その他人物とイベント

・絵島・生島スキャンダル事件
・平賀源内(秩父鉱山開発・秋田藩の銅山・秋田蘭画)
・林子平は蝦夷行き
・千賀道有は和医ながら蘭学に理解を示す
・小田野 武助や鈴木春重
・家光→家綱→綱吉→家宣→家継(ここで直系の血筋断絶)→吉宗(紀州徳川)

おまけ 18世紀ころにおける文学の需要について

「この時代の文学というものは、必ず物語に直接関係のない情景描写がふんだんに入っている。それは旅行というものを生涯ほとんど体験することのない当時の人々の知識欲に応えるためのものだった。だから今私たちが白鯨なんぞ読んでみるとびっくりする。導入部に入った途端風景の説明ばかりがつづいたりする」

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