「市民」の比較、プライドなき「市民」

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「市民」とは誰か―戦後民主主義を問いなおす (PHP新書)

西欧甘く見るべからず

 “多くの分野の研究者がもはやヨーロッパから学ぶべきものはなくなったという。しかし、それは河のあちこちを「コソ泥』のようにかすめとってきたからではなかったろうか。”終盤にあるこの一文が筆者の問題意識の全てであろう。非常に読みごたえのある本だと思う。筆者は西欧に生まれた「市民」なる概念を切り口に、日本に輸入された西洋文化はその表層をなぞったものに過ぎないということを明らかにしている。そういう意味では本書は単なる市民論に留まらず、筆者の主眼はむしろ副題の方に置かれているといえる。

「市民」の比較

 とはいえ本書は「市民」の正しいルーツやあり方を探ることが民主主義を捉える上で非常に重要であることを教えてくれる。序盤では日本で言われる「市民」は、「政治や官僚というものの対立項として捉えられ、その立場の人にもの申す事が出来る特権的な何かを与えられた個人」であることを指摘する。日本では従来の封建的共同体が崩壊することによってヨーロッパ的「自由=市民になること」が手に入れられると信じられてきた。筆者は、その考えは現在も受け継がれており、それこそが西欧に対する根本的な勘違いであることを述べている。
 では本来西欧世界にあった「市民」概念はどのようなものなのか。日本との違いを簡潔にまとめると「共同体の一員として政治的に高い意識を持つこと」であるといえる。この時点で既に違和感を持つ人も多いだろう。西欧における「市民」とは一人の個人である前に明確なまとまりを持った共同体のことなのである。「市民」になるためにはいわば一定以上の資格が必要なのだ。この概念は2千年の歴史の中で脈々と受け継がれており、それが西欧人の文化や精神の奥底に浸透していると指摘している。それを無視して言葉だけを引っ張り出すと冒頭のような事態が起きるわけである。
 また本書が秀逸なのは、おそらく文献の引用方法であるように思う。筆者は自身の論の根拠として、時の研究者(哲学者など)が「市民をどういうものと考えていたか」、という記述を著作から読み解いており、時代ごとの「市民像」の変遷が非常に分かりやすい。日本の「市民」がかくも歪んだ形で浸透してしまったことも納得であろう。

プライドなき「市民」

 西欧における重要な概念の一つに「noble obligation」というものがある。特権階級に生まれた者は下々の者を守らなければならないという意味であるが、これは極めて「市民」概念に近いものがある。良くも悪くも階級社会である西欧では統治する者と統治される者が、歴史的にも明確に分けられてきた。それも現在のヨーロッパDNAに刻まれているはずである。であればここから生まれた「民主主義」は本来は、全員が横並びの状態にある日本では為し得ないものであるかもしれない。

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