公共性の理想とジレンマ

2368viewsdaichi kanazashidaichi kanazashi

このエントリーをはてなブックマークに追加
公共性 (思考のフロンティア)

「公共」の概要

 公共性というものを深く考えたことが無かった自分にとって、全台増を把握するための導入として非常に分かりやすい本だった。というのも、冒頭に「公共的空間とは、自らの行為と意見に対して応答が返される空間」とある。端的にいえば周囲に無視されない空間のことであるが、これは必ずしも自分にとって心地良い空間を意味しない。何故なら自らの行為と意見を真っ向から批判される空間も広義においては公共的だからである。

公共性の理想とジレンマ

 上記の観点から、本書は「孤独」を公共性の対義語として位置付ける傾向にあり、主にカント、アーレント、ハーバーマスを中心とした公共性論者の言説を取り上げながら公共性の概念を整理している。私は社会学者のことはよく分からないが、おそらくこの3者が簡潔にまとめられているというだけでも本書を読む価値があるのだろう。
 まず本書では、異なる意見を受け入れる空間としての公共性の理念と、それでもなおマイノリティや「言説の資源を持たざる者」が排除されるという現実の傾向を対比されている。これは現代日本が公共性という「正義」の言葉を隠れ蓑に国民に文化的コードを強要した構図そのものであり、公共性が異質を排除するように働く「共同体」と類似の部分を持つ理由でもある。この現状を踏まえて、アーレントの理論を中心に正しい公共性の条件が整理されている。それによると「現れの空間」、つまり自分が周囲の他者から「誰」であるかを認識される空間こそが公共的空間であるという。これはある個人が「何者であるか」という問いかけとは決定的に違う意味を持つ。後者は学生である、日本人である、○○社員であるといった、周囲の人間の認識が入り込む余地のない個人の属性のようなものである。対して前者は、彼は優しいか否か、何が好きなのか、どんな傷を抱えているのかなど、つきつめれば他者の内面が完全に予期できることはないという点で、限りなく他者が自由な存在者でいられることを意味する。
 それに対し共通認識(本書では「ニーズ」とかなり似た意味で用いられているが)のあることを公共性とみなす向きもあるが、現代ではそれが「生命の保障」に集約されているという。社会国家の誕生は生に対するリスクの集合と分散化を目的としていた。しかしその大前提となっていた個々人の集合を基盤とした経済成長にブレーキが効き始めた結果、個人が社会保障に充てることのできた資本を自ら抱え込むようになり、生命の保障を個人が担うようになってしまったという。これが現代において公共性の必要条件である公開性を阻害する最大の要因でもある。

公共性の条件

 少々結論を急げば、本書でいうところの公共性を実現するには、その参加者全員が公共性の意味を正しく理解し実践できることが条件となる。そのためには個人のリスクを減らしつつ公共性を実現できるか、という矛盾した問題にも目を向ける必要があるし、自らの意にそぐわない他者との折り合いを、妥協ではなく協調として受け入れることを真正面から考える必要もあるだろう。

関連まとめ

本のまとめカテゴリー


コメントを書く