借りたお金、返す?返さない? 室町時代の「不思議の法」

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徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか (講談社現代新書) [kindle版]

室町時代、「借金棒引き」を実現させた徳政令。

しかしそれは、やがて人々から忌み嫌われる存在となったーいったいそれはなぜなのか?

本来徳政とは、天変地異などに直面した為政者が、善政をなすことを指した。

しかし13世紀、鎌倉幕府が困窮した御家人を救うため、売却した土地の返還や債務の帳消しを命じる幕府法を発令、これが世間から徳政と呼ばれ、徳政が債務破棄を意味することとなる。

室町時代、時の将軍足利義満は、対立関係にあった南朝との講和、延暦寺など寺社の懐柔策を完了。そして荘園領主である彼らの所領を積極的に安堵する代わりに、幕府からの課税を認めさせた。やがて各荘園は幕府からの税負担にあえぎ、それに天候不順などが重なり地方経済の困窮により地方の民衆がついに一揆をおこし徳政を主張(1428年正長元年徳政一揆)。
幕府は徳政禁令を出すものの奈良興福寺では徳政令を発令。荘や郷単位でも各自で徳政令を出す。(中世社会は、法律は各主体がばらばらに出し、個人は自分に有利な法を好きに選択できた)

つぎの1441年嘉吉元年徳政一揆ではついに室町幕府初の徳政令が発令。人々はこぞって債務帳消しの裁判をおこす。
相次ぐ債務帳消しにより、債権側の当時の金融業(土倉)の経営規模が縮小し、土倉への課税を主な財源にしていた幕府の財政も悪化。

その結果幕府は1454年分一(ぶいち)徳政令を発令。
幕府が徳政を認める代わりに債務帳消し額の一割を手数料として幕府に支払えというもの。
翌年改正され、債権の安堵にも適用されることとなる。
債務破棄か債権保護かは、申請の早い者勝ちというびっくり仰天の法律だが、当時は歓迎され裁判が多発。

しかし債権がいつひっくり返されるかわからない状況は、結局経済や社会の混乱につながっていき、貸し渋りや徳政対策のため資金取引が煩雑になるなど個人や社会の負担になった。また人々の助け合いのための小さな貸借関係(頼母子講など)まで徳政令が及んだため、人々の信頼関係も破綻。

また室町幕府の不安定化によって軍事動員された武士たちに、幕府は代償として武士の債務帳消しの徳政令を出す。応仁の乱(1467年~)を経て、動員した武士に兵糧料の代わりに徳政令を発令することが常態化。正長一揆からわずか40年で、徳政の主体は武士となり軍事政策のための徳政令となっていく。

このように社会を分断し(貸借相論が絶えない)、秩序と人々の絆を破壊するものになり果てた徳政令は人々の忌避するものになってゆく。
人々はお金を借りる際、借りた後に徳政の適用を求めることはないと宣言し、天災が起こっても徳政を求めなくなった。

ー社会に蔓延する徳政の脅威を一掃して欲しいー

人々の思いを実現するためには、広域を支配する強力な公権力が不可欠である。
分裂した社会の統合は軍事的制圧によって進められた。
織田信長は、軍事動員のために徳政令に頼るなどという安直な方法をとるのではなく、度量衡の統一、検地などを推し進めた。織田家の法度が他の法を飲み込んでいく。
その後も大規模な戦争を繰り返し、日本中総動員体制のなか、法度の支配のもとで統合は進んでいく。

もはや室町時代のように、寺社、朝廷、幕府それぞれが他と調整もなしに税を課したり、法もばらばらという分権的な社会では無くなっていった。

戦国期の人々は、天災に直接立ち向かい、支配者も、観念的な徳より現実的な支配を求められていた。時間の観念も16世紀を境にサキ(先)が未来のこと、アト(後)が過去のことを指すように変わる(以前は逆 例 先祖等)。

感想

面白かったです。
経済から歴史の流れを見るのはエキサイティングでした。
人々の赤裸々な欲望がこれでもかと例にあげられるのも、今の人間との変わらなさを感じほほえましいです。
終章に文明史的な転換の時代として戦国時代が取り上げられるのですが、非常に興味深い話ですので興味を持った方はぜひご一読をお勧めします。
ここまで読んでくださってありがとうございます。

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