小説でしか追体験できない、あみ子の世界

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こちらあみ子 (ちくま文庫)

※ネタばれを含みます

商業的には、映画化、ドラマ化もしくはアニメ化など、メディアミックスしやすい作品ほど「良い小説」という考え方もできるかもしれません。
それ自体を否定はしませんが、それでも「ああこれは文章以外のどんな方法でも表現できないな」と思える作品に出会えると、興奮を禁じえません。

今村夏子さんの『こちらあみ子』はそんな小説です。

内容としては「あみ子」という、おそらくひとりの少女とその家族の日常を描いたストーリーで、「画」にすることが難しいわけではありません。
でもこの話は、三人称ながら、完全にあみ子の視点のみから語られます。そして、周りの人々については行動が描写されるのみで、その感情はほぼ省かれています。

それは、あみ子が他人の感情をまったく理解できない女の子だからです。彼女はおそらく自閉症もしくはアスペルガー症候群などの発達障害を持っている子です。しかし、話の中では一切そういった言葉は出てきませんし、小説のテーマも障害児を扱ったものではありません。

この作品は、あみ子が小学校中学年から15歳で義務教育を終えるまでに経験する兄との交流、クラスメイトの男の子への恋慕、母親の死産などが語られ、プロローグとエピローグで彼女のその後を少し垣間見ることができます。

あみ子は学校で歌を歌ったり机に落書きをしたりカレーライスを手で食べたりする「変わった子」なので、周囲の子からいじめられ馬鹿にされ、義理の母親からも疎まれています。しかも、他人の気持ちがわからないために、他者へ迷惑をかけたり傷つけたりしまいます。あみ子には決して悪意はなく、そして他人の悪意にも気づくことはありません。

あみ子の行動や言動が元となって家族は崩壊していくのですが、その様子が実に淡々と、時には喜劇的にすら描かれます。描写はくどくなくシンプルであるとともに、野花や木など自然の美しさを十分に感じさせてくれます。どうしたらこんな文章が書けるのだろうと何度も溜め息をつき、悲惨な話にもかかわらず読み終わった後はなんだか心地よさを感じます。

この作品は三島由紀夫賞と太宰治賞をW受賞しています。三島賞を受賞したときの会見に関する千野帽子さんと米光一成さんの対談がネット上にあるのですが、次のエピソードが印象的でした。

米光:受賞会見がネット中継されていて、記者が「特異なケースの人の話で自分たちとは関係ないと思う人もいるのではないか」というすごい質問をして。千野:ええっ。米光:選考委員代表の町田康さんが「こわれたトランシーバーで交信しようとする姿はまさにぼくたちの姿じゃないのですかッ!?」って答えていて、読んだ時の気持ちを思い出してジーンとした。

社会の中で、あみ子は確かに「異物」かもしれませんが、あみ子の感じる世界をいわゆる「普通の人」は共有できないのでしょうか。個人的には、そこに絶望的な境界線があるとは思えません。あみ子の世界と私達の世界とは間違いなく地続きです。

おそらく、どんなにうまく表現したところで、この作品を絵や映像にしてしまったとたん、受け取る側は登場人物の表情や細かなしぐさなどを俯瞰的に見てしまうことで、あみ子の認識できない「余計な」情報を取得し、その感情や気持ちを推し量ることができてしまいます。そうなると、あみ子の感知する世界から離れることを意味します。そしておそらく「発達障害を持つ子とその家族の悲劇」という凡庸な作品にしか映らなくなるでしょう。

ぜひぜひ小説で「あみ子の世界」を体験してみてください。

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