『恩讐の彼方に』封建的価値観への批判と、赦しへの過程

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恩讐の彼方に [kindle版]

 
 安永三年、江戸の旗本の家で殺人事件が起こります。屋敷の奉公人、市九郎が旗本である主人といさかいの末、主殺しの大罪を犯してしまったのです。原因は主人の妾、お弓とねんごろになってしまったことでした。市九郎とお弓が密会していた現場に、突然主人が踏み込んできて、応戦しているうちに主人を殺すという最悪の結果を招いてしまいます。

 お弓の「こうなっちゃ、一刻の猶予もしておられないから、在金をさらって逃げるとしよう」という言葉に従って、二人はその場から逃げるのでした。屋敷には三歳になったばかりの実之助が眠っていました。

 市九郎はお弓にけしかけられ、追いはぎを働くようになりました。

三年がたち追いはぎも板についたころ、若夫婦が市九郎たち二人の餌食になってしまいます。市九郎は、この夫婦を殺した時に芽生えた良心の呵責と、お弓の強欲さに嫌気がさし、身一つで逃げ去りました。

 そして、美濃(岐阜県)の浄願寺に駆け込み、寺の上人に一切の罪を打ち明けます。市九郎は出家し、名も了海と改めました。

 出家後に諸国を修行しながらたどり着いたのが、豊前国(大分)の樋田という宿場でした。そこで「鎖渡し」という難所で命を落とした馬子といきあいます。

  この鎖渡しでは年に10人もの人命を奪ったという恐ろしい場所であることを聞き、実際に鎖渡しを目にしたとき、約360メートルに余る岸壁をくりぬいて道を通す事業を起こすことを決心します。

  はじめのうちは、騙りじゃといって非難していた里人たちでしたが、協力するようになります。しかしその困難さからあきらめてしまうこともありました。

  市九郎は村人の協力がなくなった後もひとり岸壁を掘り続けます。やがて20年近くが経過し隧道の開通を信じて疑わなくなった里人たちは、積極的に掘削を手伝うようになっていったのです。

  隧道の開通を目前にしたある日、市九郎のために非業の横死をとげた旗本の息子、実之助が現れます。実之助は敵討ちのため、長い間市九郎をさがして諸国をさすらっていたのでした。

 やがて実之助の前に現れた市九郎の姿は、人間というよりも、むしろ人間の残骸というべきものになっていました。実之助の張りつめた心は、この老僧を見てタジタジとなってしまいます。ですが、いざ決心して敵を討とうとする実九郎の前に、五六人の石工が挺身して走り出てきます。石工の棟梁に隧道の開通という大願成就の日まで仇討を待つよう哀願され、実之助はこれを受け入れます。 
 

 石工たちの哀願を受けれはしたものの、今宵こそと仇討を心に決めた実之助が洞窟に忍び入ると、洞窟の底からクワックワッと間をおいて響いて来る音を耳にします。それは了海が深夜ただひとり暗中に端座して鉄槌をふるう音だったのです。

   その一心不乱な音と、しわがれた悲壮な声で経文を誦する声、衆生を救るために砕身の苦しみを嘗めている了海。それに比して深夜の闇に乗じて、おいはぎのように、憎悪のために権をふるおうとしている自分を顧みると、実之助は戦慄が体を伝うのを感じました。

 実之助は、老僧を闇討ちにするようなことはせず、一生の悲願達成の日まで待つことを決心します。そして呆然とその日を待つよりも、自分も槌をふるうことによってその日が早まることを悟り、了海と相並んで槌をふるうようになりました。
 二人が並んでのみをふるうこと1年半ついに洞門は貫通します。二人はすべてを忘れ手を取りあって涙にむせんだのでした。

 

感想

大正八年に菊池寛が耶馬渓伝説をもとに描いた短編小説。大分県中津市の耶馬渓(やばけい)で、江戸時代の僧禅海が、自らノミと槌で30年をかけ彫りぬいた洞門が「青の洞門」です。耶馬渓には「鎖渡し」という難所があって、命を落とす民衆が後を絶ちませんでした。これを見かねて禅海が托鉢で資金を集め、石工を雇い、執念で洞門を完成させました。この逸話をもとにして書かれたのが『恩讐の彼方に』です。主人を殺しただけではなく、峠で追いはぎを働いていて旅人を殺めていた市九郎が、峠を安全にするための悲願をたて、一心不乱に打ち込むさまと、親を殺された実之助が苦難の果てにたどり着いた敵のもとで赦しへと至るさまが非常に面白い小説です。耶馬渓を実際に見に行くとなお面白いです(^_-)-☆

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