哲学の偉人たちが現代に蘇るとき

1331viewsabyssabyss

このエントリーをはてなブックマークに追加
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。

ある穏やかな春の日、17歳の児嶋アリサは、バイトからの帰り道にニーチェと名乗る男に話しかけられる。

好きだった大学生が、部活の由美子先輩と仲良く歩いているのを目撃して落ち込んでいたアリサは、二人の仲を応援したいけど、応援できない自分に対する嫌悪をニーチェに話す。
そんなアリサをニーチェは「道徳に支配されている」と笑い、現世にいる間、どんな不条理にも負けない精神を持つ”超人”になる術をアリサに教え込むと言い、そこからアリサと現代に蘇った哲学者たちの不思議な日々が始まるのだった。

アリサはニーチェと過ごしていくうちに、自分の人生について少しずつ考えを深めていくようになる。ゴールデンウィーク最終日、アリサはニーチェに知り合いを紹介される。キルケゴールと名乗る彼は、格好こそ変人なものの、ものすごくイケメンでアリサは思わず息をのむ。キルケゴールは主体的真理や実存主義について、カフェでゼリーを食べながら語るのだった。

梅雨のある日、Twitterを見ていたニーチェがつぶやく。

「やばい、キルケゴールが鬱モードだ」。

何事かと駆け付けた二人に、キルケゴールは頭を抱えながら自由のめまいがもたらす不安について語る。そしてそんな不安から逃げず誠実に向き合い、前を見つめることこそが絶望しないために必要だと語る。その言葉は、家族関係に逃げ続けていたアリサの心を揺さぶるのだった。

ニーチェとアリサはある日、ワーグナーと出会う。明らかに冷たい態度をとるニーチェにお構いなく、二人を山奥にある喫茶店に連れていく。喫茶店のマスター、ショーペンハウアーは、人生の苦悩の鎮静剤としてロッシーニの音楽を愛する、気難しい男だった。ショーペンハウアーは人生は欲望と退屈のいたちごっこであり、人間には主観的な半分と客観的な半分の二つがあると語る。幸せになるには自分の内側を健全に保つしかないが、あくまでいっさいの生は苦しみであり、最後には死が必ずやってくると哀しくも力強さを持った声で語るのだった。

祇園祭を間近に控えた7月、アリサはバイトの先輩であった下野さんの誘いで、合コンに行くことになる。合コンの相手であるガールズバーのオーナー、サルトルは、アリサがニーチェと知り合いと知ると機嫌を良くし、饒舌に語り始める。サルトル曰く、実存は本質に先立ち、人間の生に理由はないという。また、独自の離人感やゲシュタルト崩壊、対象化や社会に参加することを熱く述べる。という概念を用いて世の中は認識を度外視して直視すると、不気味なものであり、その存在を必然とする思想は欺瞞だと切り捨てる。最後に、サルトルはアリサとの交際を申しこむ。サルトルの破天荒さにあきれながらも、アリサの夜は更けていくのだった。

サルトルから紹介され、アリサとニーチェは京大で講義をしているハイデガーに会いに行く。「死の哲学者」ハイデガーは、ダスマンやダーザインといった独自の概念を用いながら、死を意識して生きることの重要性を語る。「死をもって見つめたとき代わりが聞かない存在である」と。そして別れ際にニーチェと一緒にいる理由について問われたアリサは、これまで当たり前だと思っていた自分の生とともに、その意味を考えることに夢中になっていた。

祇園祭で酔いつぶれたニーチェを介抱しに入った喫茶店で、アリサはヤスパースに出会う。ヤスパースは愛しながらの闘争という言葉を用いて、他人と心を通わすことの喜びについて語る。

そして哲学者たちとの別れの時。祇園祭から一か月後、大文字山の送り火を見ながら、アリサは笑顔でニーチェとお別れをした。

関連まとめ

本のまとめカテゴリー


コメントを書く