自由論(ミル 著)

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自由論 (光文社古典新訳文庫)

人間は経験と議論によって、自分の誤りを改めることができる。ただし、経験だけでは駄目である。経験をどう解釈すべきかを知る為に、議論が必要だ。間違った意見や行動は、事実と議論によって次第に改められていく。しかし、人間を心底から納得させるには、事実と議論をはっきりと示してあげなければならない。事実を見ただけで意味が分かることはめったにない。その意味を理解するには何らかの解説が必要なのである。

人が判断力を備えていることに対する本当の値打ちは判断を間違えた時、改めることができるということにある。信頼のできる判断を下している人とは、常に間違いを改める姿勢のある人である。その人は、実際どのようにして、そのようになれたのだろうか。それは、自分の意見や行動に対する批判を常に受け止めてきたからである。どんな反対意見にも耳を傾け、正しいと思われる部分はできるだけ受け入れ、誤っている部分についてはどこが誤りなのか自分でも考え、できれば他の人にも説明することを習慣としてきたからである。一つのテーマでも、それを完全に理解するには異なる様々な意見を全て聞き、物の見え方をあらゆる観点から調べ尽くすという方法しかない。実際、これ以外の方法で英知を獲得した賢人はいない。知性の性質からいっても人間はこれ以外の方法では賢くなれない。

他人の意見と対照して、自分の意見の間違いを正し、足りない部分を補う。これを習慣として定着させよう。そうすると、意見を実行に移す時も、疑念やためらいが生じない。それどころか、この習慣こそが意見の正当な信頼性を保証する、唯一の安定した基盤なのである。なぜなら、自分に対する反対意見、祝なくとも明示された反対意見は全て承知しているし、あらゆる反対意見に対抗する形で自分の立場を定めてきた。―反論や難点を回避せず、むしろ進んで求め、問題を照らす光はどの方向からきたものであろうと全て歓迎してきたからである。だからこそ、自分の判断はこういう方法をとらずに進んできた人の判断よりも、あるいは集団の判断よりも、優れていると考える権利がある。

われわれがもっとも確かだと思っていることでさえも、絶対的な根拠があるわけではない。だから、われわれは逆に、それが間違いであることを証明せよと、つねに全世界によびかけるしかない。呼びかけに応じる挑戦者がいないか、いても証明に失敗した場合、我々はまだ、確かなものからほど遠い、しかし、我々は現段階での人間の理性がなしうる最善のことをなし、真理が到来する機会を最大限に設けたと言える。

自分の知性がどんな結論に達しようと、とにかく最後まで自分で考え抜く、それが思想家の第一の義務である。そのことを認めないものは、決して偉大な思想家にはなり得ない。自分の頭で考えず、世間に合わせているだけの人の正しい意見よりも、ちゃんと研究し準備をして、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見の方が、真理への貢献度は大きい。

人は疑わしいと思わなくなった事柄については、考えるのをやめたがる。それが人間のどうしようもない性向であり、人間の過ちの半分はそれが原因だ。「確定した意見は深い眠りにつく」とは、現代のある作家の言葉だが、まさに至言である。

個性とは人間として成長することである。個性を育ててこそ、十分に発達した人間が生まれる、あるいは生まれる可能性がある。

(感想へ続く)

感想

天才はごく少数しかおらず、そして、常に少数のままだろう。しかし、天才が現れる為には、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は自由という雰囲気の中でしか自由に呼吸できないのだ。天才はまさしく天才であるがゆえに、他の誰よりもはるかに個性的である。社会は、人々が独自に性格を形成する苦労を省いてあげる為に、性格の型をいくつか用意し、それに合わせれば済むようにしているが、天才はそうした方に当てはめにくく、無理に押し付けると弊害がでる。そこで私は、天才の重要性と、天才が思想においても行動においても自由に開花するのを許容すべきであることを強く主張したい。

独創性は、独創性を持たない人間にとっては、何のありがたみも感じられないものである。それを持っていれば何の役に立つのか、彼らには分からない。分かるはずがない。彼らに分かるようなものなら、それは独創性ではないからだ。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • ジョン・スチュアート ミル

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