レビー小体型認知症の人が見る世界とは

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私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活

本書は51歳でレビー小体型認知症と診断された著者が、その体験について綴った、世界でも類い稀な手記です。

レビー小体型認知症はアルツハイマー型認知症に次いで多い認知症ですが、アルツハイマー型認知症と比べるとあまり認知度は高くありません。著者はその無知、無関心こそがレビー小体型認知症をもつ人を苦しめる一因となっており、本書を読むことでこの病を理解する一助となってくれればと、この本に託す思いを書かれています。

この認知症の特徴の一つは幻視であり、著者曰く「本物にしか見えない」。虫であれば毛の一本一本や目も見えるそうで、感情は「目の錯覚だ。目の錯覚なのだ」と叫んでいるのに、理性では「あれは目の錯覚とは違う。リアル過ぎる」と感じる。つまり、頭の中で感情と理性が喧嘩するような感じになるようです。

消長を繰り返すのも一つの特徴で、「まるで私に取り憑いた疫病神のよう」と言います。つまり、やっと病気を忘れて明るい気持ちになった途端、目の前に現れて、卑しい顔で私をせせら笑う存在。「困るなぁ。忘れてもらっちゃ。私はいつだってあなたにぴったりくっついているんだから。何があろうと私から逃れることなんて一生できないんだから」と。

このように長く苦しむ病でありながら、物忘れがあまり進行しないため、周囲からは「本当に認知症なんですか」と疑いの目を向けられてしまう。また、認知症と伝えたときに返ってくる家族、友人からの反応が怖くて言いだすことができずに、一人で苦しむことの多い孤独の病でもあるともいいます。これは夫との何気ない会話の中に垣間見える、ある残酷なシーンと共に、赤裸々に書かれています。

『夫が言う。「これからは、ふたりであちこち旅しようね」何も言えなかった。『ごめんね。「これから」は、ないんだよ』夫に病名を言えないのは、夫の混乱からもしかしたら飛び出すかもしれない「傷付く言葉」より、「優しい言葉」なのだと気付いた。優しい言葉をかけられたら、私は、その度に号泣してしまいそうだ。』

本書には、その後、夫や子供に病を打ち明けるなかで、ごく自然に家族が受け止めてくれる姿も書かれています。

『「大丈夫!もし歩けなくなったって、車いすもあるじゃないか!」と言う。私は、どうして何年も、バカみたいに悩んでいたんだろう。子供たちは、とっくに私の想像を越えている。人を支える存在に成長している。
人は、いや、私は、弱く、頼りない。人に支えてもらわなければ、生きてはいけない。どうしてそんな明らかな事実すら、私は認めようとしなかったのか。』

感想

表紙には「レビー小体型認知症からの復活」と銘打たれておりますが、本書の内容から言えば「レビー小体型認知症の世界」のほうが正しいように思います。つまり、復活というのは、どこかで乗り越えるものとか、幸せになるというような意味を含んでいるように思いますが、著者自身、病気にはそのような意味をもたせていないと述べています。
『病気とは、意味とも価値とも幸不幸とも関係ない。意味があるとかないとか、価値があるとかないとか、幸せとか不幸とか、そういう次元のものじゃない。もっと膨らみ、広がり、深みのある、何か豊かなものを生み出す基になるものだと思う』

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