哲学書中の最難関!ヘーゲルの『精神現象学』には何が書いてあるのか?

4660views松井勇人松井勇人

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精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

近代哲学の集大成にして最高の叡智。そして難解を極める哲学の領域にあって最難関とされるのが、本書G.W.F.ヘーゲルの『精神現象学』である。ここには一体何が書かれているのか。

天命についての概念「ことそのもの」、主人よりも奴隷に未来があるとする「主奴論」。本書にはこうした重要とされる論述が多々存在する。しかし、そんなものは単なる目くらましに過ぎないのだ。

それでは、本質は何なのか。ヘーゲルの立場を端的かつ率直に表明した言葉として有名な言葉が、序論の49ページに登場する。

「死を避け、荒廃から綺麗に身を守る生ではなく、死に耐えて死の中に自己を支える生こそは、精神の生である」。

やはり難解である。これは一体どういう意味なのか。以下見てみよう。

下巻の「解題」、411ページにもあるように、序論こそが最後に書かれた記述であり、全体のまとめとしての趣が強く出ている。だからここは最重要なものと捉え、しっかり読み込まねばならない。

本書では、対置されている2つの重要概念が存在する。神の如くの認識を直感する「宗教家の知恵」と、もう一つは「努力の知恵」、すなわち知を学びとるとする立場だ。

宗教家の知恵は、神の祝福がないにもかかわらず「ある」のだと、間違って捉えてしまう場合がある。そんな「神のいとし子」達は、困難にぶち当たった時に混乱に陥る。絶対であるはずの自分の(神の)知恵が通用しないからだ。また、彼らはあまりに上からものを語り、その絶対的正しさを根拠に人を支配しようとする。だから闘争と混乱とが付いて回る。(これは選択理論心理学のexternal worldと同じ概念だ)。

真理の本当の形態はそうではない。自らが間違っていることを認識し、学ぶことで他者と一致することをどこまでも求める中にそれはある。こちらがヘーゲルの立場である。すなわち現実における真理とは、学問なのである。

だから我々は不完全さを認めなければならない。その時、自ら以外のものに模範を求めるようになる。そして「認識」が生まれる。学とは認識なしではありえない。釈迦が観察する瞑想、ヴィパッサナー瞑想で悟りを得たように、我々は認識することで真実を見つめるのだ。

逆に言えば、不完全さを認めない上述の神のいとし子達は、「他者」に真理を求めない。つまり「認識」する能力が開花しない。それだけに、他者の中に肯定すべき部分を見つけ出すことも不可能だ。まさに人が人とつながることができるのは、自らを否定できた時なのである。(これは選択理論心理学のquality worldを示す。)

自らを否定した時、他者を発見する。そのとき同時に自ら自身をも見出す。自分の内にある否定性を客観視し、自分を他人にする。他人だからこそ、自分を「発見」できるのである。

この時、否定性は逃げるべき怪物などではなく、克服し学ぶべき課題となる。だから人は学(真理)の道を歩み出すのである。我々は神のいとし子などではない。悪を内に認められた時に初めて「認識」が生じ、学すなわち真理の道を歩み出すことができるのだ。ともすれば陥りがちが独善だが、正しいことは常に間違いの中にある。

否定性を基底としたこの死のプロセスが、前述した本書の核、「死の中にこそ自己を支える生を見出す」、すなわち精神の生なのだ。ちなみにキルケゴールは「トラウマに立脚し、社会に貢献しようと想像を羽ばたかせるプロセス」を、ヘーゲルと同様「死」と名付け、そこに究極の救いを見た。この部分はヘーゲルと全く同じである。これはまさに実存の書である。一般的にはキルケゴールから始まるとされる実存ではあるが、間違いなく彼はヘーゲルの系譜の中に数えられるべきである。

しかし一点、キルケゴールと異なるポイントとして、絶対に押さえておくべきものがある。ヘーゲルは、人が上の「死のプロセス」を歩む時、我らは絶対知に向けて浮上する螺旋運動に乗っているとするのだ。すなわち彼は超自然的な神の力を認めているのである。

私見だが、絶対知とはおそらく釈迦が至った解脱の彼岸。孔子が到達した、「70にして心の欲するところに従えども、のりを超えず」の境地だろう。そこには間違いがないのだ。

自己への道。それは彼岸へ至ろうとする菩薩の道である。大乗仏教が彼岸を目指す努力の中に救いを説いたように、ヘーゲルも自己へと至ろうとするスタートにこそ究極の真実があるとした。これは始まりの書。始まりにして集大成。近代最高の叡智である。

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