梶井基次郎「檸檬」

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檸檬 [kindle版]

鋭敏な感覚で綴られた不思議な美的世界

その頃、私は「えたいの知れない不吉な塊」に始終悩まされていた。何をしてもすぐに居たたまれない気持ちになってしまい、街から街を放浪せずにはいられなくなってしまうのだった。

その頃の私が好んだのは、みすぼらしい街の裏通りの風景であった。あるいは花火やおはじき、南京玉といった他愛のない玩具であった。当時の私にとって、そういった美しくてみすぼらしいものだけが慰めであった。私はかつて丸善に置かれていたさまざまなハイカラな品々を眺めるのを非常な楽しみとしていたが、今はそれすらも「借金取の亡霊」のように見えるのであった。

そんなある朝、私はいつものように街をさまよい、一軒の果物屋に立ち寄った。そこは、当時の私が最も気に入っていた店であった。そこで私はいつになく買い物をした。というのも、その店には珍しい檸檬が置かれていたからだった。これまで、その店で檸檬を見たことはなかったのだ。

私は檸檬の「絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」や「丈の詰った紡錘形の恰好」が非常に気に入った。そして、檸檬を買ったとたん、私を始終おさえつけていたあの不吉な塊が去り、私は非常に幸福な気分になるのだった。檸檬の冷たさは、当時肺病を患っていた私にはとても心地よいものだった。そしてその匂いは、産地のカリフォルニアを彷彿とさせた。

こうして気分よく歩き回った私が最後に立ち寄ったのは、普段私があれほどまでに避けていた丸善の前であった。私は「今日は一つ入って見てやろう」という気になり、店内へと入っていった。

ところが、どうしたことだろう、丸善の店内に入ったとたん、それまでの幸福な感情は消え去り、憂鬱な気持ちと疲労感が重くのしかかってくる。以前は好きだった画本をめくるのさえ耐え難いことのように感じてしまう。

すると、ふと私は袂の檸檬のことを思い出し、あることを思いつく。さまざまな色彩の本を手当たり次第に積み上げて幻想的な城をつくりあげるのだ。そしてその頂にはあの檸檬を据えつけるのだ。

それは上出来だった。そして、私は更に奇妙なたくらみを思いついた。
―それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。

私は、自分が黄金色の恐ろしい爆弾を仕掛けてきた悪漢で、十分後にはあの気詰まりな丸善がこっぱみじんになってしまうだろうなどと空想しながら、店を後にするのだった。

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  • 梶井基次郎

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