永井荷風「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」

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濹東綺譚 (岩波文庫) [kindle版]

玉の井の私娼とのはかない交流を描いた美しい作品

この小説の主人公である「わたくし」は、大江匡という名の老作家で、現在「失踪」と題する小説を構想中である。この小説は、家族に邪険にされた種田という名の元中学教師が退職金を持って行方をくらまし、かつての女中と邂逅して一夜をすごすという筋であるが、どう結末をつけるかはまだ決まっていない。

6月のある夕方、「わたくし」は小説の舞台探しに散策に出る。雷門からバスに乗って玉の井近辺で降りると、そこは盛り場のすぐ近くなのに、なんとも侘しげな一郭で、「わたくし」は小説の主人公の潜伏先をこの辺りにしようと考える。

しばらく玉の井の近辺を歩いていると、やがて雨が降りだす。「わたくし」は傘をさすが、すると後ろから声をかけながら入ってくる女がある。相合傘に恐縮した「わたくし」は女に傘を貸してやり、後から彼女の家までついていく。

女はこの玉の井の私娼窟で働く娼婦で、名を雪といった。こんな場所には似つかわしくないほど美しい女で、昨今では珍しく髪を島田に結っている。「わたくし」はそんな古風な様子に心惹かれ、1時間ほど遊んでいく。

さて、小説の舞台が決まると、「わたくし」は早速小説の執筆にとりかかる。しかし梅雨が明けて家々の窓が開け放たれるようになったせいか、近所のラジオの音に邪魔されてなかなか筆が進まなかった。そこで「わたくし」は、ラジオからの逃走と「失踪」の実地調査とをかねて、墨田川の東へと散策に出ることを日課とするようになった。自然と、玉の井のお雪の家に通うことも多くなった。

玉の井の町並みは震災前の東京の俤を色濃く残しており、時代に取り残された世界のような場所で、お雪のような女と情を交わすことは、倦み疲れた「わたくし」の心に、過去の幻影をありありと呼び起こしてくれるのだった。お雪の家は汚い溝沿いにあり、夏になると蚊が異様に多かった。しかし、そんな溝の匂いも、蚊の鳴き声も、「わたくし」にはひどく懐かしいものに思われるのであった。

「わたくし」はお雪に対して決して自分の素性を明かさなかった。有名作家という自分の身分を明かすことで、お雪との間に懸隔が生ずるのを恐れるがためだった。もっとも、お雪は「わたくし」が春画の類に妙に詳しいところから、勝手に「わたくし」の職業を怪しげな本の出版人か何かと思い込んでいた。すると、お雪はますます打ち解けてきて、「わたくし」を全く客扱いしなくなった。

さて、「わたくし」がお雪の家に足しげく通うようになって、3月がたとうとしていた。ある日、お雪はふと「わたくし」に、借金を全部返したらお嫁にもらってほしいというようなことを漏らすのだった。いつしかお雪は「わたくし」によって境遇を一変させようという心を起こしていたのである。しかし、お雪を幸福な家庭人たらしめるには、「わたくし」のような人間は似つかわしくもない。また「わたくし」がお雪に見せているのは仮の姿にすぎず、本当のことを打ち明けることは、お雪を傷つけることにもなる。幸いお雪は快活な女で、現在の境遇をさほど悲観してはいない。むしろこの境遇で得た金と経験を元手に、身の振り方を考え将来に生かそうとする元気もあれば才智もある女である。そう考えた「わたくし」は、もうそろそろ玉の井通いを止めにしなければならないと思う。

こうして「わたくし」は二度とお雪の家には行くまいと決意するが、その後もつい訪ねてしまう。しかし、最後に訪れたとき、そこにお雪の姿はなく、「わたくし」は、お雪は病を得て、入院中であることを知るのであった。

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