井上靖「天平の甍」

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天平の甍(新潮文庫) [kindle版]

鑑真の招聘に尽力した若き留学僧たちの壮絶な運命を描いた歴史ロマン

天平4年、日本に仏教が渡来して既に180年たっていたが、当時の日本には未だ僧たちの守るべき戒律が定められていなかった。そこで朝廷は中国から優れた伝戒の師を招き、日本に正しい仏教の戒律を施行しようと考えた。その役に選ばれたのは、普照、栄叡という若い学僧であった。

翌年春、普照、栄叡の2人に戒融、玄朗を加えた4人の留学僧を乗せた第九次遣唐使船は日本を発ち、3ヶ月以上をかけて中国に漂着した。

普照たち4人は洛陽の大福先寺に預けられ、それぞれ勉強をはじめるが、戒融だけはなぜか最初から中国語がたくみで現地の僧たちと交わっていた。戒融は妙に机上の勉強を馬鹿にするようなところがあり、数年後には中国全土を放浪したいといって出奔してしまう。

一方、普照たちは、洛陽で奇妙な日本人僧に出会う。名を業行といい、入唐してから二十数年を、ひたすら経典の書写に費やした変人だった。彼は経典の書写だけを自らの一生の仕事と考え、いつかその膨大な写本を日本に持ちかえらなければと考えていた。

2年後のある時、栄叡は未だに戒律の施行されていない日本の現状を聞き、強い責任を感じて帰国を言い出した。伝戒の師を日本に招くこと、業行の書写した経典類を日本に持ち帰ることを、自らの一生の使命と考えたのだ。普照は勉学に未練はあったが、栄叡の考えに賛同する。

早速、栄叡は周辺の僧たちにこの話をもちかける。その中に道坑という僧がおり、彼が高僧鑑真の弟子だったことから、2人は鑑真に会う機会を得る。鑑真は訴えを聞くと弟子の中から志願者を募るが、誰も行きたがらないと見て自分が行こうと申し出る。こうして鑑真の日本行きが須臾にして決まり、普照と栄叡は渡航準備に奔走する。

一行は、天宝2年から3度にわたり渡航を試みるが、その度に裏切りや海難などで失敗する。しかし普照たちは決して諦めなかった。

天宝7年、彼らは鑑真を訪ねて再び揚州に入る。前回の失敗をふまえ、細心の注意を払って渡航の準備を整えた。同年6月、遂に鑑真ら一行と業行から預かった経典の一部を乗せた船が日本へ向けて出港する。しかし、船は時化に襲われ、遥か南洋の島へと流されてしまう。一行は失意のまま本土へ向かうが、その途中、栄叡は志半ばにして死んでしまう。さらに鑑真も眼を病んで視力を失っていく。そんな折、普照は中国を放浪中の戒融に出会う。

戒融から業行の消息を伝え聞いた普照は、休養の後で業行に会いに洛陽を訪れる。実は南方に流された際、旅の負担になるため経典を現地の寺に納めてしまっていた。それを話すと業行は激怒する。普照は責任をとり、失した分を自ら書写することを申し出る。

ある日、普照は日本の遣唐使船が漂着したことを耳にする。これを最後の機会ととらえた普照は、副使の大伴古麿にかけあって、帰りの便で鑑真らと帰朝できるよう手筈を整える。その前後、普照のもとへ玄朗が妻子を連れて突然現れ、日本に連れて帰ってほしいと頼み込む。普照は同船の許可を得るが、結局出航の日に彼は姿を現さない。

こうして天宝12年、鑑真一行は5度目の渡日に臨んだ。中国を発った遣唐使船はやがて沖縄にたどりつく。しかし、業行と膨大な経典を乗せた第一船は近海で座礁し、行方知れずとなってしまう。一方、鑑真一行と普照を乗せた第三船は途中荒波に襲われるが、なんとか無事に日本に漂着することができた。

天平勝宝7年、鑑真は新田部親王の旧知を賜り唐招提寺を開く。その金堂の甍には唐の戒融から普照宛てに送られてきた鴟尾が使われた。

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