諸葛亮孔明は軍師というより政治家

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諸葛孔明―三国志の英雄たち (岩波新書)

誕生~

  • 西暦181年、徐州の琅邪郡陽都県に生まれる。

  • 家族は両親と兄の諸葛瑾、弟の諸葛均、二人の姉がいた。

  • 幼い頃に母、そして父の諸葛珪が亡くなったため、その弟である諸葛玄の世話になる。

  • 13、4歳の頃、曹操が徐州の陶謙を攻めて虐殺を行ったため、避難して揚州の豫章郡へ移る。

  • この時に兄の諸葛均は江南へ移り、後に呉の重臣となる。

  • 15歳の時に荊州へ移り、叔父の諸葛玄が亡くなってからは、劉備が自分のもとを訪れるまでは田舎暮らしをしながら徐庶や龐(ホウ)統と交流を深め、社会情勢を見守っていた。

劉備との出会い~

  • 魏とはまともに戦うことを避け、呉を味方とし、最重要地である荊州を獲得し、益州を拠点にすべきであるとの持論を劉備に述べる。

  • 赤壁の戦いでは降伏論者を黙らせ、孫権を説得して戦いに踏み切らせる。

  • 戦後は、呉との様々な駆け引きの後にようやく荊州を領有するようになる。

  • 拠点獲得のために益州攻略へと乗り出すが、その途中で孔明と並ぶ優秀な人材である龐(ホウ)統が戦死し、後の構想に大きな影響が出た。

三国鼎立時代~

  • 孔明は、様々な脚色を省いていくと、実際に最も能力を発揮したのは政治においてだった。

  • 劉備の旧臣、荊州の人材、制覇する前から益州にいた人材を、様々な思惑や利権が絡む中で見事に組織し、国家運営を進めた。

  • 戸籍の整備や税収の確保に取り組むなど、内政に日々取り組む姿は、演義に描かれる戦場での神がかった活躍とは程遠い。

  • 孔明の考えていた天下統一策は、関羽の暴走によって台無しになる。

  • 関羽は孫権との関係をぶち壊し、無断で呉軍の食料を奪い、影響力を持つ地方の有力者のことを馬鹿にして無礼に振る舞うなど、最重要地域である荊州を任されている身としては考えられない失態を重ねて死んでいった。

  • 事実上、この時点で三国統一の夢は潰えたのだった。

劉備の死後~

  • 関羽と、続いて死んだ張飛の復讐に我を忘れた劉備は呉に敗れ、程なく亡くなる。

  • 孔明はこの時、漢中の戦いで活躍した法正が生きていたらと嘆いたという。

  • 百戦錬磨の武人も勿論だが、何よりも龐(ホウ)統や法正など、大局を見ることの出来る人材が孔明以外に少なかったことは、国家運営にとって致命的だった。

  • 南中を平定して後顧の憂いを絶ち、出師の表を上奏して北伐に乗り出す。

  • 馬謖の失態で断念したり姜維を味方に引き入れたりしながら、司馬懿と何度も戦いを繰り返し、西暦234年、五丈原にて亡くなる。

  • 孔明は、若くして三国鼎立を考えたり、厳正な法治国家を作り上げたりしたことから、政治家としては間違いなく傑出した人物だった。

  • 一方の軍略面では、例えば何度も北伐を繰り返しながら結局は成功しなかったし、赤壁の戦いでは、当然ながら孔明が東南の風を起こしたわけではなく、周瑜や魯粛が然るべき働きをしたから勝利したのだった。

  • 天才軍師というイメージは、ほぼ後世の創作で定着したものに過ぎない。

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