私とアイデンティティ感覚

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わたしは生きてるさくらんぼ―ちいちゃな女の子のうた

『私は生きてるさくらんぼ』という絵本がある。ちいさな女の子が、その日にみた景色、人々、色彩の中にとけこむように、「わたしは 木 わたしは 猫.」「わたしは あお わたしは 金.」と、自由にすきなものに同一化し、うたう。そして「わたしは いつも わたしでしょう. わたしは いつも あたらしくなるのよ.」としめくくる。
 この本は私にとって大切な本のひとつである。なぜならこの本は25才の頃の私の心をゆさぶり、涙を流させたからだ。私はその頃「私らしくありたい」という強い理想を持ちながら「私らしく生きられていない。周りにも自分を分かってもらえていない」という焦りに苛まれていた。厳しくない、芸術的なことを重視する両親に育てられ、自由な雰囲気の音楽科高校と大学に通い、歌で自分の作品理解を表現したり、映画を観て本を読んでは抽象的かつ意味深長なことを言ったりすることで「私は私である」という想いを満足させていたようなところがあった私は、甘やかされていたことに気づかないまま大学を卒業し、深く考えずに就職した。そして、そこで出会った初めての社会がどのように自分を扱うかに驚き、傷ついていた。その職場では「私が私である」ゆえに生じる「ユニークな美意識」の提示は全く求められておらず、「私は何者でもない、意見や好みを持つべきでない、ただの新入り」として扱われた。今考えると全くもってナイーヴ過ぎるが、当時の私は日々屈辱のような感覚を味わい、憤慨していた。
 そのような時期に読んだ『私は生きてるさくらんぼ』の少女は私にとって眩しかった。「わたしは いつでも わたし」だと確信し、すました大人たちの前でも堂々とうたいつづける少女に憧れた。今考えると、私は青年期のアイデンティティ対アイデンティティ拡散のプロセスにいたのだろう。それ以降も小さなことに悩みながら、少しずつ社会という他者の中に自分を存在させる術を見つけていった。
 そんな日々の中、この本を繰り返して読むうちに、彼女が「わたしであること」を、誰にも言う必要がなく、自分自身さえ知っていればそれでいい、という姿勢を持っていることに気づいた。この少女は大人には理解を求めない。「でも おとなたちには わたし いわないのよ」「おとなたちは まちがってるの. わたしは 知ってるわ. だから そう わたしは うたうのよ.」という風に。
 年月を経て、今の私は、以前よりは『私は生きてるさくらんぼ』の少女に近づいてきているように思う。仕事ではよりクリエイティビティを発揮できるような業種に移り、職場環境も、よりひとりひとりが自分らしく生きることを重視してくれる環境に移ることができた。しかし、以前なら私らしくないといって悲しくなっていたような場面、例えば周りと同じようなリクルートスーツを着て通り一遍のあいさつをし続けたり、知らない人ばかりの所でその他大勢として扱われたりするときでも、私はもう悲しくなることはない。その日、どんな状況に巡り会って、どんな色になったとしても、私は私であり、私のうたをうたうことができる。そのうたの内容を、いちいち周囲に分かってもらう必要はない。私自身は(そしてきっと私の大切な何人かの人たちも)、今はもう、どこにいて何をしていても、私を私だと知っているから、またそのことを私が知っているから、多少のことでは「私は私である」という感覚が揺るがなくなったのだと思う。これは私にとってとても幸せなことである。

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