治療者が知っておかなければならないとても大切なこと

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劇的な精神分析入門

Ⅵ章の2では、治療者の持つ二重性について語られる。「臨床ではあらゆるセラピストが対象として興奮させて、同時に拒否的であり、対象全体としてアンビヴァレントな情緒を向けられやすい。そして、治療におけるこれらの矛盾とは、同時に世界の割り切れなさをこなすための機会となるといえる」とある。またそのような矛盾の意味をうまくこなせないことが多いのが強迫神経症やボーダーライン、統合失調症、また悩む若い者たちであり、治療が困難になることがあるという流れも分かり易かった。
 3ではそれらの二重性がこじれたときの抜け出し方がいくつか挙げられた。その中のひとつが「問題の劇化」である。この「劇」は劇薬の劇でなく、降誕劇や劇団の劇、ACTINGのことなのだ。それは言い換えると遊びの要素を加え、余裕を与えることであり、具体的にいうと「降りてもよい、それがすべてだと思わない、否認しない、長期化させない、それについて話し合うことができる状況にすること」とある。治療者は、劇に出てしまったと気付いたときに、そのカメラをぐっとひき、外からその舞台を眺め、台本を読み取ろうとすることが必要だとある。
 さらに4では、治療者が患者の問題に「巻き込まれる」つまり劇に知らず知らずのうちに出演させられてしまう可能性と、それが再び治療的な結果をもたらすということが起承転結という4場面に分けて述べられる。セラピストは起で共感の作業をすすめ、承で巻き込まれ、押しつけられ、冷静さを失って相手の筋書き通りに役を演じてしまう。転で冷静な自分がめまいを起こしているのに気付き、演じながらもようやく台本を読むことができる。ここからはエンアクトメント、北山先生は「上演」と呼ぶことを提案している。台本を読みながら意識的にこの劇にのっているからである。そして結で、このようなセラピスト側の気づきとセラピストが得る快復への知恵により、この台本を持参した患者自身の台本に関する理解が深まるという。面白く、感動的で身につまされる説明である。セラピストという仕事のつらいところも面白いところも、未知の台本を一定期間未知のまま演じさせられるからであり、そこから台本を眺められるようになって安全な場所へ帰ってくるまでの道のりは、おぼれた人を助けに行ったライフセーバーが、いったん一緒におぼれかけ、それでもなんとか持ち直し、おぼれた人とともに岸辺に泳ぎ着くかのようなスリリングなものを感じる。こんなことはとても一人ではやり続けることができないだろう。と思ったら、次の項には物語の書き換えを助けるものとしての例えで「楽屋」が挙げられていた。
 5では傷ついた役者たち(=気付かないままに物語を演じさせられた治療者たち)を支える楽屋(=スーバーヴィジョン)の存在が述べられている。「私たち出演者はその役割を演じても、その感動に酔って、役と共に死ぬわけにいかぬ。」という一文は胸に突き刺さる。どんなにみっともない演者となり、傷つこうとも、去って行かないことこそが私たちの出演の大前提であるということは、私は今後ずっと大切に覚えて臨床の仕事に向かいたいと思う。しかしながら、セラピスト自らが治療を受けずに逆転移(傷つき)と簡単に自覚できるとはとても思えない。それは役者に楽屋のないまま舞台に上がれというようなものだ」という言葉を胸に刻みたい。必要な助けを受け、傷をケアしながら、連れ戻してもらいながら、岸辺で火にあたるように、やっと手にとった台本を読むように、ひとつひとつのケースから学び、治療を受けながらでなければ仕事はできないということがよく分かった。

感想

「簡単そうでむつかしいな」という手応えだった『劇的な精神分析入門』という本だったが、覚悟を決めて読み込んでみて「ものすごく勉強になる感動的な本」という認識に変わった。第Ⅵ章では、セラピストが、いわばクライエントの病理に引きずりこまれ、共に病む期間があるということと、病んだところからセラピストがどういう役割を持つのか、というところが学べたのが大きかった。これまで受験で学んだこと以外は知らず、何となく遠巻きにしていた精神分析の各理論にも、改めて興味を持った。北山先生の思惑に乗り、「分かりたい」と「分からない」の間で色々考えさせて頂いたので、これを機に今後も学びを深めていきたいと思う。

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