誤った歴史の通説を覆せ!

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本能寺の変 431年目の真実 [kindle版]

明智光秀はなぜ、本能寺の変をおこしたのか、明智光秀という人物はどんな人間だったのかを、明智光秀の子孫である著者が科学のごとく根拠をもとに解き明かしていく。

通説では、明智光秀は織田信長に対する怨恨から謀反を起こしたとされている。信長は光秀に日頃から冷たく当たっていたというのが通説だ。しかし、実情はとても仲がよかったという記録が信長の直近の部下の日記に残されている。実際、近江坂本(安土からすれば琵琶湖を挟んだすぐそば)や京都の丹波等非常に重要な土地を任されていることを考えればその方が自然である。

では、なぜ謀反を起こしたのか。

信長は天下を統一した暁には、そのまま明国へ攻めるつもりであった。時は大航海時代。海外の南蛮人からスペインが国を平定し、貴族たちの内乱を防ぐため、海外を攻め、その領地を与える話を聞き、信長自身もそれを実行しようと目論んでいた。60歳を過ぎていたが光秀にとって自分亡きあと、幼き跡継ぎが明へと攻めに駆り出されるということはほぼ一族が途絶えることを意味していることを悟っていた。

また、光秀は、栄華を極めた土岐衆であった。土岐衆はことごとく滅ぼされ、なんとか復興をと一族の存続に非常に執念を燃やしていた。そんな中、信長は四国の長宗我部氏討伐を検討する。この長宗我部氏もまた土岐衆であった。なんとか辞めるよう説得する光秀であったが、秀吉が三好氏へ肩入れしたため、長宗我部氏討伐は確定となってしまった。

こうして、土岐氏の存続が危ぶまれ、非常に焦っていた光秀に好機が訪れた。それは、信長が本能寺にて、徳川家康を暗殺する命令を光秀に伝えたのだ。名目は茶会に招待するということで全くく武装していない信長のもとへ家康がやってきて、それを光秀が暗殺することになっていた。家康を油断させるために信長はとにかく無防備であった。そして、この命令は光秀にのみ知らされており、光秀はこの機を逆に利用して、信長を暗殺したのだ。事実信長は「余は自ら死を招いたな」と本能寺でつぶやいた記録が残されている。

光秀だが、まったく勝ち目がない謀反を起こしたわけではない。もともとは謀反後すぐに細川氏、家康、と合流する予定であった。しかし、細川氏は光秀を裏切った。中国返しとして有名な秀吉の引き返しだが、実は光秀が謀反を起こすことは細川氏のものから秀吉にすでに漏れていたのである。毛利を急に説得したとして有名だが、実はもともと毛利と織田の関係はそこまで悪くはなかったのである。毛利からは再三和解の申し立てがあったが、あたかも秀吉は毛利との説得に苦戦しているように和解を引き延ばしたのである。そして、いつでも引き返せるように兵の撤退を進めていた。そして光秀の謀反を知ると早々に毛利と和解を進め、京へ引き返したのである。こうして、すぐに細川氏と合流するはずであった光秀であるが、細川氏の裏切りと想定以上に早い秀吉の引き返しにより家康の援軍が間に合わず、光秀の天下取りは失敗に終わったのである。

では、なぜ、そのような誤った通説が現在蔓延しているのだろうか。
それは間違いなく、のちに天下をとった豊臣秀吉が自分に都合のいいように、情報を改ざんしたからである。また、当時の人々は真実を薄々知っていたことが、当時の多くの人の言動、手紙、日記等から読み取れる。しかし、秀吉の天下の下ではそのことを大っぴらにすることはできなかったのだ。そのため、今日よく参考にされる資料には秀吉の都合のよいように、信長は残忍で、光秀と仲が悪く、怨恨から謀反に走ったことが通説となってしまったのである。

感想

正直、現代20代の私からすれば、著者が誤った真実、今までになかった通説!と書き綴っていることもそういう説も有力だと知っていた内容も多く、そういう意味でも、歴史学というものが日々更新されていることを強く肌で感じた一冊でした。また、元社会の先生の私としては、なかなか興味はありましたが、読み物としては、読んでいてしんどい部分もありました。(正しさを重視するため、参考資料等の引用が多く、古語が多かった)

とはいえ、どんなドラマでも光秀の部分がとても突拍子もなく扱われ(急に信長が冷たくなったり、急に光秀が思いつめたり)もやっとしていましたが、その部分がとてもすっきり解消される書物だったな、と思います。逆に秀吉が腹黒すぎて…笑えますが、多分それが真実なんでしょう。でないと、天下なんて取れませんから。

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