13歳から15歳に至る少女が息苦しい「隠れ家」の生活で感じた日々の想い「アンネの日記」

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アンネの日記 (文春文庫)

はじめに

 ナチスによる600万人におよぶユダヤ人の大量殺戮については、すでに多くの文献が存在している。実際にナチ強制収容所を生き延びた人々の手記、歴史家による膨大な歴史的研究、さらには、「ホロコースト」に関わった人々の証言を集成した映画。だが、それらの証言や労作にもまして、このひとりの少女の「日記」こそが、世界中の心ある人々に、ナチスによる「ホロコースト」の記憶を喚起し続けてきたのだった。

アンネの日記

 ゲシュタポに逮捕される直前まで、アンネが「隠れ家」で綴っていたこの日記には、当然ながら苛酷な収容所体験が記されているわけでも、まして「ガス室」のことが語られているわけでもない。この「日記」に記されているのは、13歳から15歳に至る少女が息苦しい「隠れ家」の生活で感じた日々の想いであり、日常の細々とした出来事である。だからこそ、この日記は600万人という数字のなかには解消されえない、かけがえのない一人ひとりの「生命」をあらためて想像するよう、読者に強く促す。
 

アンネ・フランク

 アンネは、1929年6月12日にフランクフルトで生まれた。彼女の父オットー・フランクは、フランクフルトの名望あるユダヤ人実業家たった。33年のヒトラーの政権獲得をうけて、オットーは国外への移住を計画。一家は34年にアムステルダムに居を定める。アンネと一家の新しい生活がはじまる。しかし、40年にはドイツ軍がオランダを占領する。42年、父オットーは「隠れ家」に身をひそめる決意をする。彼が経営していた食品会社の3階の一角と4階、それが一家の「隠れ家」となった。
 彼女の一家が「隠れ家」に身を隠したのは、42年7月6日のことだった。その少しまえ、13歳の誕生日に、アンネは贈られたさまざまなプレゼントのなかに「日記帳」を発見する。このとき贈られた日記帳が「アンネの日記」となるのである。その誕生日の6月12日に、すでに彼女はこう記している。「あなたになら、これまでだれにも話せなかったことを、すっかり打ち明けられそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいますように」。

あなた…

 この「あなた」とは、日記帳それ自体を指しているのである。彼女はその日記帳を「キティー」と呼ぶことにし、以降、日記の記述の多くは「キティーヘ」の書き出しではじまることになる。単なる戯れのように見えて、そこにはとても切実な13歳の少女の恐れと孤独がある。自分の分身でありながら、しかも決して自分と同一ではない「心の友」、そして自分の愚痴にいつも、いつまでも耳を傾けてくれる「心の友」、そういう存在にむかって彼女は文字を綴るのである。しかも、思いがけない「隠れ家」での生活のはじまりとともに、この日記帳は文字どおり彼女の支えとなり慰めとなる。
 父親への愛、母親への不満、姉に対するコンプレックス、「隠れ家」に同居している少年とのほのかな愛(「隠れ家」には、彼女たちの一家以外に何人かが共同生活をしていて、これがさまざまなあつれきを生む)。彼女は思いのたけを日記にぶつける。二年間を越える困難な生活のなかで、彼女は驚くばかりの成長を遂げる。ユダヤ人としての運命、愛についてのイメージ、自分のなかに潜む、何人もの「アンネ」の存在、そして何より「書く」という才能の発見。彼女はいつの日かこの日記をもとに「隠れ家」という本を出版することを思い、大人になればジャーナリストになりたいと夢見る。
 しかし、無情にも日記の記述は44年8月1日でプツリと途絶える。その3日後の8月4日、ゲシュタポが彼女たちの「隠れ家」を襲ったからである。アンネはその後、アウシュヴィッツヘ「移送」され、最後はドイツのベルゲン・ベルゼンの強制収容所で、解放直前の45年3月、極度の衰弱の末チフスのために死亡したと伝えられている。

「色々いやなことがあるけど、やっぱり人の心は善だと信じます」by アンネ・フランク

読者感想

 ナチスが徹底的にユダヤ人を迫害する中で、狭い屋根裏部屋にひっそり隠れ住みながら、なお「人間の良心」を信じ、少女の思春期の様々な思いを書き綴った一人の少女アンネ・フランク。世界が平和になるその日まで、戦争・差別があったということを決して忘れてはいけない。改めて確信した一冊だった。

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