マイノリティの社会的弱者に必要なのは擁護ではなく、担い手としての「当事者主権」

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当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

 本書は女性、高齢者、障害者、子供、性的少数者、患者、精神障害者、不登校者などのマイノリティの「社会的弱者」を網羅的に擁護される側ではなく、自らを担い手とした「当事者学」を持ち、声を上げるべき時が来たと宣言した提言書である。本書が上梓されてから12年もの時が経つので現在は少なからず社会状況には進展はある。
 だが、未だ当事者が「自分のことは自分で決める」という時、直ちに「主観的」という批判の咆哮が向けられる。その判定をするのが専門家や第三者であるとされてきた。当事者主権の考え方は、何よりもこの専門家主義への対抗として成立している。専門家とは、当事者に代わって、当事者よりも本人の状態や利益について、より適切な判断を下すことができると考えられている第三者を指す。その専門家が取る態度をパターナリズム(温情的庇護主義)と呼ぶ。
 医療の世界ではこのパターナリズムが強権的な猛威を振るった。特に障害者の権利獲得の運動史の中でもとりわけ精神障害者の分野に大いに関与している。非障害者である専門家が「障害」を定義し、等級をつけ、非障害者に近づけるようにリハビリや治療方針を立て、施設収容を促進してきたからだ。
 これに対し障害者は何が自分のニーズか、自分にとって何が適切かを一番よく知っているのは「当事者自身」であるとしてきた。だが個別の障害者が専門家主義と対抗するのは困難であるために早期から当事者団体を作り、連帯してきたのだ。
 ここで今いちど当事者とは何か?振り返ってみたい。当事者とは「問題を抱えた人々」と同義ではない。ニーズを持った時、人は誰でも当事者になる。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。現在自分が置かれている状況を理想的状況に持っていく上で不足と捉え、新しい現実を作り出そうとした時にニーズは作られ初めて人は当事者になる。「当事者主権」とは、私が私の主権者である。私以外の誰もー国家も、家族も、専門家もー私が誰であるか、私以外にニーズが何であるかの決定権を渡さないという立場の表明である。
 本書では「当事者学」として「患者学」「障害学」「女性学」「不登校学」のススメについても堂々と謳われる。
 筆者は「不登校学」を見て、丁度本書発刊と同時期に取材したNPO不登校新聞社 石井志昂記者を思い出した。石井氏が教育現場の求める価値基準に疑問を感じた中学時代「学校では常に元気で明るく、我慢強く、がんばる子がいい子として求められていました。良い成績を取ることが『価値基準』の全てだった。そんな学校に嫌気がさして、僕は中学2年から不登校になったんです。」と振り返った。不登校という選択肢を選んだ石井氏は、当時母子間で衝突していた。母の恵子氏は幼少期に目が悪くて成績が悪く、教育現場でバカにされて失っていた居場所を、眼鏡をかけただけで成績が向上し勉強によって獲得したために、息子が幸せになるには「勉強して大学に行くという道が必須」という教育観を持っていたのだ。「自分らしくありのままに生きたい」教育現場でも家庭でもその選択肢を認められなかった結果として石井氏は不登校、NPO活動という生き方を選んだ。その言葉が不意に蘇った。
 もし本書を障害者運動牽引者の中西正司氏が社会学者の上野千鶴子氏と共著でなくば、ここまでフェミニズム、障害者運動以外の当事者運動に共通する気づきは得られなかっただろう。
 インテグリティーや障害者差別解消法なる新たな議論が巻き起こる中、人権論議の前進に一歩でも繋がる「当事者主権」の見直しを薦めたい。 

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