明智光秀謀反の陰に帝の姿

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歴史「謎」物語―隠された真相を推理する (広済堂文庫)

明智光秀謀反の陰に帝の姿

 信長は天正五年十一月に従二位の位階を贈られ右大臣に任じられている。正二位を贈られたのは翌年一月。だが、その年の四月に信長は右大臣の職を辞している。これは、天皇家にとっては不気味に映る行動である。
 天皇家にとって危険な存在の信長はなんとか処分しなければならない。
 そこで、クローズアップされたのは光秀であった。光秀は古典的教養主義者で、信長の比叡山焼き討ちにも最後まで反対している。もと将軍の家臣だったこともある。そして何より光秀が源氏の出であることに天皇家は目をつけた。天皇家は、光秀に対し、「事成就の暁には征夷大将軍にするから、天皇家を脅かす逆賊信長を討て」と指令を出したのではないか。山科言継卿の残した日記には、信長が京に来る直前に、公家が信長のところに押しかけ、会談している記述がある。
 そのとき、正親町天皇が、「誠仁親王への譲位を決意した」ことを信長に告げ、信長を今日に呼び出したのではないかと思う。つまり、光秀に密勅を出す一方で、信長を京におびき寄せたのである。だから、信長は京にきて、無防備と言える状態で滞在していたのだ。
 天皇の命で逆賊を討つことは後世に汚名を残す裏切りではない。古典的教養主義者の光秀は、こう思い込むことで信長殺害に踏み切った。しかし、光秀の天下があまりにも短かったために、征夷大将軍にするといった天皇の約束、その他の記録は闇の中に葬り去られたのではないか。

不運の城、大阪城 

 幸運な城の代表は江戸城である。築城以来、上杉、北条を経て徳川家康の持ち城になるまで、一度も落城の憂き目に遭っていない。豊臣秀吉が北条討伐を行った時も、この城は一兵も損せず開城している。
 ところが大阪城は城主を不幸に追い込む白であり、事実上、三回も落城している。一人目の城主は本願寺顕如で、三人目は徳川慶喜で二人とも城を捨てたことによって命を長らえた。二人目の城の放棄を拒んだ城主は豊臣秀吉の子秀頼である。
 ここで大阪城の名誉のため付記するが、大阪城はいずれの時代も日本で最も堅固な城のひとつであった。驚くべきことに、この三度の落城は全て正攻法によるものではない。いずれも謀略や陰謀が絡んでいる。

 大阪城を築き、得意の絶頂にあった秀吉は、諸大名を招き、この城は難攻不落だとさんざん自慢した挙句言った。
「この城を攻むるには、和を入れ堀を埋め堀を毀ち、重ねて攻むれば落つべし」
 その席には、大坂夏の陣の勝者である徳川家康もいたというのである。

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