昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲、正直知りませんでした。。

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昭和まで生きた「最後のお殿様」 浅野長勲 [kindle版]

幕末(江戸)、明治、大正、昭和までを凛と生き抜いた「最後の大名」、安芸広島藩藩主「浅野長勲」の人生を通じてその歴史を振り返った1冊です。長勲の生涯に引きつけられます。長文レビューなので、序章、第1章含めかなり端折りますがご容赦ください。

第2章 維新
安芸広島藩 ブレない浅野長勲 孝明天皇の遺志を生きること。
ただ、国論を統一してもどのような国家構想であるかという発想がなかった。大政奉還前に龍馬と面会したときに龍馬が船中八策を長勲に伝えていれば新しい国家構想が生まれていたはず。

将軍慶喜自らの大政奉還
幕府が大政奉還を朝廷に上表し翌日には為された。しかし同時に大久保や西郷が倒幕工作を成功させていた。その数ヶ月後に龍馬と中岡慎太郎の暗殺。
帝から大政奉還が告げられた席上に慶喜はいなかった。徳川家自ら400万石を返上しよう、真の将軍位の奉還と帝に対した発言に長勲も奉還するといい島津も賛意。紛糾した席上、休憩に入ると
大久保が西郷の意志を確かめ、岩倉が土佐の後藤を短刀で刺してでも朝敵にすると長勲に告げ、後藤(も容堂)も朝敵にされてはなるまいと悟り、王政復古の国是をもって会議は終了した。

第3章 明治
新政権にはお金がなかった
長勲は会計事総督に任命され、豪商である三井や鴻池などが快諾し拠出、他の財産家の説得も行い財政は安定、あとは偽札対策のため越前福井で作られる特殊な和紙で製造することになった。
そののち、明治天皇が五箇条のご誓文を宣言、新政府の基本方針となった。明治2年2月、長勲は父から家督を相続、安芸守となり大名制度が無くなるぎりぎりの相続で「最後の大名」となった。同年8月には藩主は「藩知事」という各地方長官に任命、版籍奉還の一部である。長勲はさらに一歩進めて廃藩を申し出、明治4年の「廃藩置県」。長勲は西洋紙製造業を始めた。日本最初の洋紙製造工場を建設。驚くことは長勲はこの時点で「公害防止」の意識を持っていたこと。

第4章 新天地
明治15年、特命イタリア全権公使に任命。着任して、窓税や賭博税が市民に課せられていることに驚く。2年近く経ち、日本に直行するかと思いきや、フランスやイギリス、大西洋を経てアメリカまで洋行。帰国後、天皇には憲法による国の統制、運営と管理の必要性を申し出、侯爵を授けられた。明治18年に内閣制が発足、長勲はといえば、新聞作りを目指し明治22年、新聞「日本」を創刊。長勲はさらに広島に政友会という政党を組織。中央の政党活動を助ける地方政党の必要性を感じていた。その後日清戦争、長勲の広島を本部として終止日本有利に展開。長勲、53歳。明治天皇から直々に孫が産まれたら、長勲に初等教育係になってほしいと言われ裕仁(後の昭和天皇)親王を教育。このとき59歳。

終章 昭和
江戸学の祖、三田村鳶魚(えんぎょ)は江戸の市井の考証のため、長勲の承諾を得て書き留めることになった。当時の婚礼から服装、食事、登城の駕篭などを昭和10年2月号の文芸春秋に掲載。彫刻家平櫛田中(ひらぐし でんちゅう)も長勲の木像を作りたいと願い出て承諾された1人。この像は太平洋戦争中に戦災で焼失してしまうが再製。初等教育を受けた昭和天皇はこの像を見て「爺ぃ、怖かったなあ」と呟いたそうである。昭和11年6月、長勲は1つのテーブルを挟んで昭和天皇と会話した。天皇に齢はいくつかと尋ねられ、95歳でございますと答える長勲。 江戸、明治、大正そして昭和を生きてきた。まさに日本の生き字引であるなと伝えられ畏まった。その後陛下一族から歓待を受け感涙に咽んだ。

感想

幕末大名といえば、島津、水戸の徳川、土佐の山内などしか思い浮かばなかったですが、
広島の浅野も居たということが新鮮でした。浅野は孝明天皇の御心をそのままに受け継いで実行した方と察します。ブレない大名、浅野長勲、是非ご堪能ください。幕末の有力藩主は養子が多いことにも注目してほしいです。血の濃さより能力を求められていた、今とさほど変わらないのかなとの印象です。

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