「戦国大名」失敗の研究 -敗れた大名に足りなかったものは何か?-

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「戦国大名」失敗の研究 (PHP文庫)

各章について

第1章 武田勝頼の致命傷

近年でも、国内の不満をそらすために外交で得点を稼ぐ、あるいは特定の国との間に危機的状況を演出し、自身の立場を強化しようとする権力者はあとを絶たない。1578年、上杉謙信が没し、実子のなかった謙信の跡目争いが越後で起きた。二人の養子、北条氏政の弟・景虎と長尾政景の子・景勝の争いである。勝頼は景勝の側に立ち、景虎は自害した。だが景虎を敵に回すということは、景虎の兄である北条氏政を敵にする、ということ。勝頼は上杉景勝を手に入れて、北条氏との同盟を失ったのである。これこそ武田家を滅ぼす最大の原因となるのである。

第2章 足利義昭のしぶとい首

義昭にとって、有力大名の合議制により運営される政権ほどありがたいものはない。彼らを利用し利用されながら、足利将軍体制を築き上げたであろう。しかし、義昭の幕府は有力大名に支えられた不安定な政権である。そんな状況であまり人徳のない将軍が、はたして長期政権を維持できるであろうか。人を惹きつけ、公平性を持った人物でなければ、再び戦乱の世を招いたであろう。

第3章 織田家家臣団の有能ゆえの危険な未来

秀吉は「人たらし」と言われるが、それは槍働きがあまり得意でなかった秀吉の、政治力を高める手段であったのだろう。柴田勝家は、面倒見の悪い男ではなかったが、秀吉のようなスケールの人脈形成はしてこなかった。大名や土豪はもちろん、文化人や商人たちにも及んだと見られる人脈である。商人たちは、早期の時点で秀吉が使える男だと見込んだ可能性は高い。柴田勝家には、こうした話が少ない。

第4章 あり得なかった関ヶ原合戦の計算違い

家康は、こまごまと諸大名の面倒を見ていた。豊臣秀次が謀反の疑いで失脚し自刃した時い、秀次と親しかった諸大名を家康は救っている。一方、三成が諸大名から一目置かれたのは秀吉の申次(秘書室長)として、秀吉への取次を行っていたからであり、背後に秀吉がいることが彼の力の条件であった。これでは、三成と一体になって働きたいとは思われないであろう。

第5章 なぜ秀頼は豊臣家を守れなかったのか

豊臣は常に受け身であった。戦争をしたがっている相手(徳川)と交渉するのだから、相手の条件を呑むだけでは事態は改善しない。自分の実力に見合った目標は何なのか、想定される選択肢の中で最も妥当なものは何か、判断を行う能力と決断力を、豊臣家は持つべきであった。

感想

自分が置かれた状況を正しく判断できるかが、勝敗の分かれ目ということがよく分かります。成功例よりも失敗例に着眼したほうが、参考にしやすいと思います。

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