赤毛のアンを日本に広めた翻訳家の波乱の生涯

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アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)

概要

翻訳家、村岡花子(1893年~1968年)は児童文学の翻訳で知られ、『赤毛のアン』やオスカー・ワイルド、
マーク・トゥエインの作品などの翻訳を手がけ、日本の子ども達に読まれている。
その一生は波乱含みであり、
2014年3月より、NHK朝の連続テレビドラマ小説『花子とアン』で村岡花子の生涯が描かれる。

幼少時~東洋英和女学院への入学

実家は山梨県・甲府市の小作農家であり、父・安中逸平と母・てつの間に生まれる。
8人兄弟の長女である。
父は熱心なクリスチャンであり、花子も2歳の時に幼児洗礼を受けた。
花子が5歳の時に一家で東京・南品川に上京し、城南尋常小学校に通う。

花子は幼いながら短歌や俳句を楽しむ子どもであり、病気で高熱を出したときに
辞世の句を詠むほどであった。

そんな花子は父に溺愛されており、高等教育を受けさせたいという父の願いにより
10歳の時に給費生として東洋英和女学院に編入した。

英米文学に夢中になる

裕福なお嬢様である同級生に囲まれ、言葉使いから習慣までも直さなければならなかった。
もちろん、英語などまったくわからなかった。しかし猛勉強の末、英語では
群を抜く力を身につけた。
その中で花子が夢中になっていたのは、英文学である。
15歳頃の花子は、18世紀から19世紀の英米文学を読みあさっていった。

「腹心の友」柳原燁子

柳原伯爵令嬢、燁子が東洋英和に編入したのは花子が16歳の時である。
燁子もまた、結婚・離婚後に勉強をしたいと願って編入したという複雑な事情を
抱えて編入してきたが、8歳年下の花子と友情を育むことになる。
また、花子と歌人・佐佐木信綱とを引き合わせることになり、古典文学を学んだ。

卒業後、甲府へ、そして結婚へ

東洋英和女学院を20歳で卒業した花子は、卒業後も寄宿舎に残り仕事をし、
1年後には山梨英和女学校で英語教師として赴任した。
この時期、市川房枝との出会いがある。
その後はさらに東京で出版社に勤務し、翻訳活動も行っていた。
大正8年、後の夫となる村岡儆三と出会う。この時村岡は妻帯者であったが、
村岡の妻は病気療養のため3年の別居生活が続いており、周囲からも離縁と再婚を
促されていた。

『赤毛のアン』出版

結婚後、花子は大田区・大森に居を構え、関東大震災やそれに伴う夫の会社の倒産、
息子の死などを経験する。
この頃『王子と乞食』の翻訳出版をし、好評を博した。
『赤毛のアン』は日本ではまったく知られていない作品だったが、
宣教師のミス・ショーに原書を手渡され、1952年に三笠書房から出版されたのだった。

感想

村岡花子さんは兄弟の中で唯一高等教育を受け、貧しい実家のために働き、夫の会社が関東大震災のために倒産したときも家計を支えるために働きというように、常に働きながらの人生でしたが、その中でも文学への思いは途絶えることがなかったのですね。ヘレンケラーが来日したときに通訳をしたそうです。才能が輝いた一生でもあったと思いました。

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