江戸の犯罪人口はどのくらいだったのか? お江戸の素朴な大疑問を紹介します!

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「お江戸」の素朴な大疑問 住宅事情からゴミ問題・犯罪・盛り場のことまで (PHP文庫)

江戸の犯罪事情

江戸時代は「天下太平の世」などといわれ、庶民は安穏に暮らしていたと思える。しかし、その半面、大江戸は「悪の華」咲く犯罪都市でもあった。むろん、正確な犯罪統計があるわけではないから、どの程度の犯罪が行なわれていたか、わからない。

しかし、文化十三年(一八一六)に成立した『世事見聞録』には、当時の刑死者や牢死者の数を紹介している。

それによると、江戸で御仕置となった死刑以上の者は三百人、牢死者は千人以上という。また、縊死や身投げ、自殺、変死の者は千人以上だし、行き倒れも千人以上いる。大坂は死刑以上が百人で、牢死者は三、四百人、変死者は二百人ほど。京都は死刑以上五、六十人で、牢死者は約二百人、変死者と行き倒れは三百人におよぶ。また、東海道筋の変死者、行き倒れは千人以上という。

これは年間の数字だが、「天下太平の世」といわれながらも、犯罪もかなり発生していたことをうかがわせる。『世事見聞録』は、つぎのように指摘する。 「罪人を捜し求めて一人一人を捕えるならば、たとえ数百軒の牢屋があっても足りない。また、死刑以上の者が何千人となるか、計算するのはむずかしい。いまは目につく罪人だけを捕え、なるべく死刑を省略しても、先の数字のようになる。いまの世の中、百人に九十九人までは罪科を逃れ、実際に御仕置を受けるのは百人に一人なのだ」

もしそうだとすれば、犯罪者は死刑者や牢死者といった数字の百倍もいたことになる。この江戸の犯罪に立ち向かったのは、町奉行をはじめ、与力や同心、岡っ引(目明し)といった人びとだった。

江戸に警察官は何人いたのか

江戸の町人は江戸中期、ざっと五、六十万人はいたのに、町奉行所の役人は北町奉行所、南町奉行所を合わせても三百五十人くらいだった。これだけの人数で江戸市中の治安を守り、あの手この手で犯罪捜査を行ない、罪人を捕縛したのである。

実際に現場で活躍した町方役人は、与力と同心だった。人数は時代によって異なるが、南北両町奉行所にそれぞれ与力二十五騎、同心は百人から百二十人がいた。

与力の人数に「騎」を用いるのは「馬上の侍」、すなわち士官クラスの身分だからである。しかし、同心は「御徒」(徒歩で行動する侍)であり、身分は「足軽」でしかない。つまり、武士の最下位ということになる。

与力は二百石以上で、奉行所に詰めて裁判記録を調べるとか、容疑者の犯罪事実を詮議し、自供させるといった仕事をした。むろん、江戸市中の見廻りという役目もある。同心は与力の下につく職で、三十俵二人扶持。いまの警察官の働きをするのが、この同心だった。

もっとも、実際に捕物にたずさわるのは「三廻同心」と呼ばれる役人たち。天保年間(一八三〇~四四)ごろ、南北両町奉行所を合わせて、犯罪の捜査や罪人の召し捕りにあたる「定廻」が九人、定廻を補佐する「臨時廻」が十二人、つねに変装して市中を巡回する密偵役の「隠密廻」が四人で、計二十五人いた。

三廻同心の筆頭は隠密廻で、とくに権威ある役人とみなされた。必要があれば、江戸市中から外に出て、相模(神奈川県)や下田(静岡県)などにも足をのばすほど行動範囲は広かった。

感想

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