本はなぜ必要か

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街場の読書論

本はなぜ必要か。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか。21世紀とその先を生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる最強読書エッセイ。そこから名言をまとめました。

名言

仮定することが成長の一歩

  • 私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。これは人間の基本である。子どもは「子どもには見えないものが見えている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。人間のすべての知性はそういう構造になっている。「自分の知性では理解できないことを理解できている知性」(ラカンはそれを「知っていると想定された主体」と呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次元を繰り上げることができない。

「こういう本を読んでいる人間である」

  • 私たちは「自分の本棚」を自分の「脳内マップ」として他者の目にさらす。他人から「こういう本を読んでいる人間である」と思われたいという欲望が私たちの選書を駆動している。そして、この欲望は多くの書籍を読み、十分なリテラシーを涵養しえた読者によってしか担われることができない。

バイリンガルとは

  • 二つの国語を「母語のようなもの」として運用することのできる人であり、定義からして、どちらの言語をも文法規則というものを意識しないで使うことができる。この人の場合、「言語の文法規則を体系的に学ぶ」ということをどちらの国においても学習していない。その結果どういうことになるかというと、「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる。

どっちつかずのセミリンガル

  • 教育の現場から繰り返し指摘されているように、外国語というのは母国語習得のあとに学べば母国語を批判的にとらえ返す生産的な契機を提供してくれるが、母国語習得と並行して学ぶと、どちらの国語も不十分にしか運用できない「セミリンガル」を生み出してしまう。

出力したもの勝ち

  • 「学習」は脳への入力である。「テスト」は脳からの出力である。つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。

民主主義が暴力の関係

  • それは、その二つが蝶番のようにつながっているからだと思うんです。「メンバー全員が平等である」という言葉そのものは美しいんだけど、その前段には「メンバーである限りは同一のルールに従わなければならない」っていう制約がある。それまで、それぞれに違うやり方でローカルにばらけてやってきた人たちが、一つのスキームの中に押し込められて「さあ、みなさん平等になりました。では資源の奪い合いを始めましょう」っていうことになるわけですから、そこに暴力が発動するのは当たり前なんです。

「自由・平等・博愛」から外れる民主主義

  • 民主主義の理想には「自由・平等・博愛」があるのになぜその理想からどんどん乖離してしまうのか。そこには民主主義が孕んでいる非対称を作ってしまう原理があるんじゃないかと思うんですね。もともと民主主義はギリシャで生まれていますが、ギリシャの都市国家の成人男性市民は参政権を持ち、直接民主政治が行われていました。ですが、そうした市民の生活を支えているのは奴隷制度であって、奴隷、女性、子ども、それから在留外国人には参政権がない。ギリシャで最初に政治の理想形態として民主主義ができた時から、非対称の構図が前提。

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