レヴィナスと愛の現象学のポイントまとめ

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レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

リトアニア生まれにして、ホロコースト・サヴァイヴァーであるフランス国籍のユダヤ人哲学者、エマニュエル・レヴィナス。研究者の立場からではなく、彼の「自称弟子」として、哲学史に卓絶する圧倒的なテキストをウチダが読み解く。あなたにも、難渋で知られる文章の向こうにレヴィナス先生の暖かな顔が見えてくる。

レヴィナスと愛の現象学

師弟関係で「他者」を知る

  • 師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。

出来ないことを知ったなら、その知的ポジションを知ることが出来る

  • 多くの人が誤解していることだが、「……ができる」と言うことよりも「……ができない」と言うことの方がずっとむずかしい。なぜなら、「……ができる」ということは、その技術・情報の種類や水準や形態にかかわらずランダムに列挙することができるからである。しかし、「……ができない」ということをランダムに列挙しても、それはその人の知的ポジションについてはほとんど何も伝えることができない。

知性を超えた何かを、身体が引き受けることはありうる。

  • 身体はある場合には頭脳よりも開放性が高い。頭脳が拒むものを身体が受け入れるということはありうるだろう。知性の容量を越えるものを身体が引き受けるということはありうるだろう。

ものを考えることは、身体で覚えるということ。

  • 情報を収集することと、ものを考えるということは違う。ものを考えるためには訓練が要る。その訓練は身体的な修練だと思った方がいい。

「中間的なもの」がなければ、対論の結果を再検討することができない

  • 対論の帰趨が決し、一方の学知がドミナントなものとなって、新たな「風土」を形成するとともに、「中間的なもの」は、日なたの雪だまりのように、いつのまにか溶解し去る。そうなってしまうと、読者たちは、その学知が、かつて活性的な対話態にあったときに、どんなふうに着想され、何に異議を唱え、どれほど激しい対論を繰り広げたのか、もう思い出すことができない。だから、もし先行する学知を蘇生させようと願うなら、その初発の動機に即して、「中間的なもの」をもう一度蘇らせなければならない。

知性は、「不十分にしか知らないこと」を知ること

  • 知性とは「私は……を知っている」という知的達成の累積ではなく、「私は……について、不十分にしか知らない」という不能の語法を通じて錬磨される、そうレヴィナスは考えるのである。

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