家康が開いたのは江戸幕府でなく伏見幕府

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本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (ソフトバンク新書)

えっ、伏見幕府だったの?

江戸を本城としながらも、家康はほとんど江戸にいなかった。秀吉が在世中は京都、伏見、名護屋(佐賀県)などにいた。秀吉の死後も伏見にいたが、当初は城下の石田三成の屋敷のすぐ下だったので、これでは不用心だと宇治川の対岸にある向島城に移ったのち、伏見城に乗り込んだ。

そしてここで将軍宣下を受けたのだから、江戸幕府でなく伏見幕府だった(最後の将軍である慶喜も江戸にあったことはなく二条幕府だったが)。そののちも一六〇七年まではここにいたが、隠居所として駿府城を築き、そこに移った。三島に新城を設けることも検討したらしいが、改築ですませたわけだ。気候のよさなどもあろうが、七歳から一八歳まで過ごした地だから故郷のようなものだ。

この城にはお気に入りの息子である一〇男の頼宣が城主として同居していたが、家康の死後に紀州に追い出され、秀忠の次男である忠長がこれを与えられて駿河大納言と称した。

忠長の失脚後は城代が置かれていたが、明治元年になって徳川一六代目の家達が駿河・遠江七〇万石の領主となり駿府城に入った。地名は静岡と改称されたが、家達は廃藩置県で東京に帰った。それでも、旗本などで当地に残ったものは多かったし、徳川慶喜は明治三〇年(一八九七年)まで留まった。

大坂の方は、夏の陣のあととりあえず、家康の孫(長女である奥平信昌夫人の子)で養子でもあった松平忠明が一〇万石で封じられ、再建に当たったが、秀忠の代になると、大坂城を本格的に再建して伏見城に代わる将軍家の西日本における居城とし、日本経済の中心として位置づけることになった。

伏見城は家康の駿河移転後も維持され、家光の将軍宣下もここで行われたが、やがて、その機能の大部分は大坂城に移され、淀城(京都市伏見区)が宇治川の守りとして整備された。二条城もお屋敷から本格的な城として改築され、後水尾天皇の行幸を迎えることになった。

伏見城の天守は二条城に移し、それまでの二条城のものを淀城に移した。諸建築もあちこちに移された。皇居二重橋の上に優雅な姿を見せる二層櫓も伏見城から移築されたものの一つだ。

感想

なんとなく歴史には通説とされているものがあります。でも、それは本やドラマ用に脚色されていたりします。そんな歴史の真実に迫るのが本書!

地球に生まれてよかったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

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