信長に学ぶ都市づくり

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織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)

信長は都市づくりを変えた

信長以前の都市は、大まかに言って「城や政庁を中心にして発展したもの」「交通の便のいい要衝に自然発生したもの」の二種類に分けられる。前者は、京都や太宰府、山口などである。後者は、堺、博多など。

信長は、この両方の特徴を併せ持つ都市を作った。つまり、「交通の要衝に、城や政庁を持ってきた」のである。その最初の本格的なものが安土城である。

なぜ、政庁が交通の要衝から離れたところに置かれたかというと、敵に容易に攻められないためである。戦国武将の城も、ほとんどは交通の便が悪い険しい山岳地などに造られた。「攻め落とされないこと」が優先されたからである。しかし、信長は安土城を、〝平地〟のしかも交通の要衝に造った。

交通の要衝に、城(政庁)を造れば、その街の発展速度は急激に上がる。政庁都市と商業都市の両方の機能を合わせ持つからである。「交通要衝の平地に城を造る」。このことで、信長は都市の歴史を大きく変えたのだ。

安土城以前の城の建物は、立て籠もることができるための施設にすぎず、天守も物見櫓、武器の収蔵庫のような役割しかしていなかったとされている。「高層建築物」による城を造ったのは、実は信長が最初なのである。「天守閣=城」という概念を植え付けたのは、信長なのである。

城下町というのは、メインストリートは一本であり、その両側が発展していくに過ぎない。しかし、二本のメインストリートがあれば、それだけ発展の速度が速いわけである。この二本のメインストリートは、信長が京都、堺などを見て着想したと見られている

小牧山の都市建設は、その後の戦国大名たちの都市作りに大きな影響を与えた。小牧山城以降の城下町は、複数のメインストリートを持つものが増えているのだ。

日本でもっとも繁華な通りとされている渋谷区の表参道は一キロちょっとである。またパリのシャンゼリゼ通りは三キロである。単純な比較は難しいかもしれないが、安土の「市」は、五キロ以上なので、相当な規模だった

兵農分離の誕生

この「兵農分離」は、安土城で完成したとされている。それまでの戦国時代の城では周辺に家臣たちが住んでいることはあっても、兵士のほとんどは領地で半農の生活をしていた。合戦のときだけ、城に集まるのである。

しかし信長は馬廻衆と弓衆に屋敷地を与えて、城に引っ越してくるように命じたのだ。信長は、以前も城を移すたびに家中の武士たちに家族とともに城下に住むように命じていたが、それほど徹底されたものではなかった。安土城ではこれが徹底され、本格的な「兵農分離」となったの

熱田は熱田神宮があることから、優れた宮大工が大勢いる地域である。岡部又右衛門の岡部家は、熱田の宮大工の中でも名家であり、初代岡部又右衛門は足利善政に番匠として仕え、御所の造営などにも携わったといわれている。二代目岡部又右衛門も信長に見こまれ、清洲城、岐阜城の修築にも携わったようである。

安土城の特徴でもある「石垣」は、安土近くの穴太などの石工たちが担当したとされている。彼らは、加工しない石をそのまま積み上げるという方法で、高くて強固な石垣を造った。この石工たちは安土城の石垣ですっかり有名になり、「穴太衆」と呼ばれて全国の城造りに駆り出されることになった。

瓦に金箔を貼ることは、信長直系一族にのみ許されたことのようで、配下の武将たちが当時築いた城には使われていない。

感想

信長の時代の文化や技術、勢力の力関係がわかります。この本を読むと、戦国の見方が変わります。超おすすめです。

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