13世紀はモンゴルの世紀

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世界一わかりやすい世界史の授業

チンギス=ハン

1206年、モンゴル人のテムジンはモンゴル高原を統一し、クリルタイ(部族長会議)でチンギス=ハンになりました。目標は「打倒、金」です。

金はモンゴル系の遼を滅ぼしたツングース系だからです。しかし、イスラーム王朝ホラズムのオトラル地方長官の非礼への復讐から西に遠征しホラズムを滅ぼし、西夏も滅ぼします。

チンギス=ハンにはジュチ・チャガタイ・オゴタイ・トゥルイの4子がいましたが、オゴタイ=ハンが二代目大ハンとなりました。

バトゥの西方遠征とユーラシアの成立

オゴタイ=ハンはカラコルムを都に定めて金を打倒し、兄ジュチの子バトゥに西征を命じます。バトゥはモスクワを経てキエフ公国を滅ぼしました(1240)。モスクワの政治の中枢クレムリンのクレムはモンゴル語で「砦」、キエフのあるウクライナのクライはモンゴル語で「辺境」を意味します。

バトゥは1241年にオーデル川上流のワールシュタット(リーグニッツ)の戦いでドイツ・ポーランドの諸侯連合を破りますが、オゴタイの死で引き返しました。引き返さなかったら、どこまでがモンゴル帝国になっていたでしょうね!  オゴタイの子で三代目大ハン、グユク=ハンのときに宣教師プラノ=カルピニがカラコルムに来ました。

次に、チンギス=ハンの末子トゥルイの子モンケが四代目大ハンになります。フランス王ルイ9世が派遣した宣教師ルブルックがカラコルムに来ました。モンケは弟フビライに大理と高麗を、弟フラグにアッバースの都バグダッドを攻撃させます(1258年)。

フビライ即位と4ハン国への分裂

中国好きのフビライが上都で五代目大ハンになると、オゴタイ家のハイドゥがフビライ即位に反旗をひるがえし、ハイドゥの乱を起こしました。この反乱でモンゴル帝国は元と4ハン国に分裂します。

フビライは大都(現在の北京)を建設します。元(1271~1368年)が中国を支配します。元はモンゴル人第一主義です。3%のモンゴル人と色目人(西域人)が、97%の漢人(旧金支配下の諸民族)と南人(南宋支配下のおもに漢民族)を支配しました。

漢民族は当初、登用されなかったので科挙は廃止されました。ゆえに儒学者は浮浪者なみの職種に落ちたんです。九儒十丐(丐とは物乞いのこと)といわれました。フビライはラマ教黄帽派のパスパを師と仰ぎ、パスパ文字を採用しました。北京には現在もラマ教寺院が点在しています。

駅伝制度がジャムチといいます。その通行許可書が牌符(パイザ)でパスパ文字が記されました。「駅」という字がなぜ馬偏かわかりますか? 元々は馬をつないでおく場所だったのですね。情報伝達には早馬を使いました。

「世界史は 13世紀に始まった」といえるのはなぜか?

モンゴル帝国が成立した13世紀には、ヨーロッパとアジアが一体化し、ユーラシア(Europe+Asia)も成立しました。人とモノが交流します。世界が一つになって世界史が始まります。

宋代中国の技術、羅針盤・印刷術・火薬がヨーロッパに伝わります。中国絵画の影響でイスラーム世界にミニアテュール(細密画)が成立しました。偶像否定のイスラーム世界にも絵画は生まれるんですね。

1348年。イタリアのフィレンツェでボッカチオが書いた『デカメロン』によるとペスト(黒死病)が蔓延しました。フィレンツェの人口の5分の3が死亡します。中東でも人口は3分の2に減少、元から明へ人口は1億2千万人から6千万人に減少しました。

ユーラシア全体がペスト禍に見舞われたのです。元末に救いを求める宗教結社による紅巾の乱が起きたのも、ペストと関係があります。 『高麗史』によると倭寇が始まり、さらに人を拉致します。

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