死を考える「メメント・モリ(死を想え)」

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メメント・モリ

はじめに

衝撃の書である。何度も読み返すべき数少ない作品だと思う。
「メメント・モリ」は「死を想え」という意味であり、本書には写真と言葉が添えられている。
人間の生死に関わる様々な場面と言葉に出会うと、本当に心に衝撃を受ける。必読の書。

「この本は汚れれば汚れるほど良い。(中略)その間に、読者は本書の言葉や写真のいくつを感じ、いくつを解釈し、そして、いくつを乗り越えることができるだろうか」

生と死は繋がっている

現代において、生と死は日常生活において区別され、認識されている。死は汚らわしいものであり、不気味なものであるという考え方が一般的である。
誰も口にはしないが、死を取り上げ言葉にすること自体が一種のタブーとなっており、陰密に扱われている。
今や死の大半は日常ではなく病院に存在する。私たちは日常の死から目を背け、対峙することを避けている。死への恐怖から逃れたい気持の現れだろうか。

「死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最期のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選び取るのです」

死は選び取るものであるという表現が興味深い。死を選ぶだけの勇気を養うには生を充実させなければならない。
自身の生を日々懸命に生きている人間でなければ死後の不安感で頭はいっぱいになり感情から何から取り乱してしまうだろう。

「眠りは、成仏のための、日々の練磨のようなもの」

成仏、即ち人間は死んだら永遠の眠りに就くのである。
眠りは生きていることを象徴する一つの休憩活動だが、それはまさしく死につながっているのである。

死は世界と結びついている

P24の写真は、人間の死体がまるでキャンプファイアーのように火葬されている場面である。薪からはみ出た足が何とも生々しい。
何の躊躇もなく、何の隠匿もなく、死体は火葬されている。

「ニンゲンの身体の大部分を占める水は、水蒸気となって空に立ち昇る。(中略)焼け落ちた炭素は土に栄養を与えて、マリーゴールドの花を咲かせ、カリフラワーを育てる

かもしれない」

人間が生々流転するとは、人間の心が魂になってあの世で生まれ変わりまた世界に生まれてくるということではなく、今現在を生きる生身の人間が死んだとき、もしくは死ん

だ後、その身体が水分を失い、地中へと、世界へと戻っていくということを現しているのではないだろうか。

彼は、人間はその生だけでなく、死も世界と結びついているのだということを主張しているように思える。

「よく気をつけて見ていると、足もとに、いつも無限の死がひそんでいる」

足もとが見えなくなるとき、それは即ち立っていられなくなったときである。
立っていられない時、それは床に臥し死を待ち構えるその時なのである。
足もとには自身の死もまた転がっている。

自然の中でニンゲンは死を想う

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」

「ニンゲン」も一種の存在として自然のサバイバルに加わっていた。変化に適応できるものが生き残る。
何の規制もない中で、思想としての自由ではなく、ニンゲンは本質的(自然)に自由であるということを表現したかったのではないだろうか。

「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過ることがある」

写真にはのどかな田園が広がっている。自然と調和している古い民家がある。
そのように、人間も動物も植物も区別なく存在する自然の中でニンゲンは死を想うものだったのだと藤原は言いたかったのではないだろうか。

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