ピンポンさん(城島充)の書評・感想

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ピンポンさん (角川文庫)

とんでもない日本人がいたものだ。
内容に入ろうと思います。
本書は、高校一年から卓球を始め、たった5年で世界の頂点に立ち、その後日本のスポーツ界にとてつもない功績を残し続けながら、惜しまれて亡くなった天才・荻村伊智朗の生涯を描いたノンフィクションです。
1949年、都立第十高の二年だった荻村は、卓球部の主将だった。
中学時代は野球のエースだった荻村は、身体が小さくて自分はプロにはなれないからと言って野球はやめてしまう。都立第十高入学当時卓球部は存在しなかったが、先輩たちがどうにか卓球部を創部しようとしているのを知り、先輩たちの美しいラリーに惹かれた荻村は、創部を目指して活動を始めることになる。
ここから、荻村のとてつもない人生が始まっていく。
荻村の人生にはもう一人、重要な人物がいる。
2008年に閉めてしまったが、つい最近まで吉祥寺で卓球場を続けてきた、上原久枝という女性だ。
久枝は、家の事情から、当時の女性としては珍しく職業婦人として働いていたが、戦争をきっかけに仕事を離れ専業主婦として過ごしていた。専業主婦として何者でもない日々を過ごすことに焦りを感じていた久枝は、たまたま手にとった婦人雑誌に、函館に住む主婦が自宅で開いた卓球場が人気だ、という記事を見かける。
卓球場なら自分にも続けられるかもしれない。
そうして久枝は、夫を説得し、吉祥寺に卓球場を開く。
この二人が邂逅した。歴史のifの話はよくあるけど、もしこの二人が邂逅しなければ、その後の荻村の活躍もなかったのではないだろうか。
設備も時間も、高校では満足に練習出来なかった荻村は、他の同世代の卓球をする学生同様、町中にある卓球場で汗を流した。母子家庭だった荻村は、母親の蔵書を勝手に売りさばいてお金を作り、それで費用を捻出していた。
ある時吉祥寺に新しい卓球場が出来たと聞いて見に行くと、久枝に中に入ってやっていったら、と声を掛けられた。
やせっぽっちの少年は、卓球にすべての時間を注いだ。周囲の言うことを聞かず、練習の工夫や効率などをすべて自分で考え、妥協ということを知らなかった。周囲と打ち解けられず、傲慢に見られていた荻村だったが、久枝にだけは懐き、困っている人を助けたくなってしまう性分の久枝も、孤立し苦悩を抱えながら卓球を続ける荻村を献身的にサポートした。
久枝の卓球場には次第に、荻村を中心に様々な人が集まり、卓球部のない大学に進学した荻村は、久枝の卓球場で作ったチームで大会に出場するようになる。
そして荻村は、卓球を始めてからたった5年7ヶ月で、圧倒的な強さを見せて世界一となった。
しかし、他人にも厳しさを求めるあり方や、孤高を貫くスタイルには、反発も多かった。後に日本のスポーツ界に偉大な貢献を残す荻村だが、選手時代の回想をされると悪評ばかりが飛び出す。それでも、勝負に異常にこだわり、また、日本の卓球界の未来のことを考えながら動き続ける荻村に迷いはなかった。
選手を引退した後も、荻村の活躍は続く。
指導者として成果を残し、また国際卓球連盟会長に就任して以降は、「米中ピンポン外交」など、スポーツで各国の融和を図ろうと世界中を飛び回った。
1994年、荻村が62歳で亡くなった際、メディアは荻村についてこんな風に伝えた。
<日本スポーツ界は天才的才能のリーダーを失った><戦後日本の希望の星><「スポーツを通じ平和」が信念>
卓球選手としてだけに留まらない情熱を秘めた、荻村伊智朗という一つの才能を伝えた傑作です。
いやー、これはちょっと凄すぎました!!

感想

荻村と周恩来のエピソードで、とんでもないものがある。
中国が参加した名古屋大会で、中国側はとある戦略を使った。それはルール違反ではないが、マナー的にはよくない。中国側の戦略を見抜いた荻村はいち早く抗議し、止めさせた。
それを新聞記事を読んで知った周恩来はこう言った。
「オギムラさんに抗議を受けるようなことはしてはいけない。オギムラさんを起こらせてまで勝つ必要はないよ」
それからも、南北問題に苦しむ朝鮮に何度も足を運び、南北共同のチームとして卓球選手権に出場させたり、アパルトヘイトに苦しむアフリカの黒人選手を特例で世界選手権に出場させたりと、スポーツを通じて外交を潤滑に進めようと努力し続けた。
とにかく、とんでもないノンフィクションでした。かつてこんな日本人がいたのか、こんなに妥協を知らず情熱を持ち続けられる人間がいたのか、と衝撃的でした。是非読んでみてください。凄いです、ホント。

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