人間にとって科学とはなにか(湯川秀樹+梅棹忠夫)の書評・感想

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J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

本書は、世界的物理学者である湯川秀樹と、見識ある文化人類学者である梅棹忠夫の二人による4つの対談を収録した作品です。
本書の7割以上を占めるのが、「人間にとって科学とはなにか」と題された章で、これは1967年に中公新書から発売された同名の新書の再録である。それ以外に、
「現代を生きること―古都に住みついて」
「科学の世界と非科学の世界」
「科学と文化」
という三つの対談が収録されている。
どんな内容なのか、というのを簡潔に説明するのは、これがなかなか難しい。湯川秀樹も梅棹忠夫も、専門分野だけではなく様々な広汎な知識を持ち、普通の人が展開しないような独特な発想を繰り広げつつ、科学というものを中心に据えて様々な方面にその話の触手を伸ばしていくので、ちょっとここで内容紹介をすることは難しい。
二人の話がなかなか高度だったので(これについては後で書くけど、難解というのとはまた違うのですよね)、自分の中で追いつけない話も多々あったので、とりあえず自分の中で理解できた気がする部分だけをなんとなく書いてみようと思います。僕の解釈が間違っている可能性は多々あるので、あんまり鵜呑みにしないでくださいね。

まず、情報と生物学と物理学の話が出てくる。これまで科学というのは基本的に、物理学に代表されるように、不確定な要素というものをなるべく排除して、きっちり定義出来るものを対象にしてきた。生物学はそういう学問ではなくて、遺伝子に代表されるように、情報をいかに運ぶかという観点が初めからあった。徐々に最近、物理学と生物学が近接し始めて生物物理学なんてのが生まれるようになって、ようやくそうなって、物理学はそれまでに対象としていた事以外のものまで研究の対象に含めなくてはいけないような時期に来たのではないか、という話。

また、科学にはどんな価値があるか、という話もされる。科学は他の学問と大きく違って、その学問体系そのものには、他に還元できそうな価値はない。もちろん結果として、科学的知見が何かに転用されて価値を生み出すことはあるが、そもそも科学的体系というのは価値を持たないことが大前提である。科学的探究心というのは、人類が生まれ持った感覚なのではないか、というような話。

また、科学と人間という話も出る。科学、特に物理学は、ヒューマニズムと相性が悪い。物理学の場合、その内側に研究対象としての人間、というものを含める必要がない、というか、必要がないと思われてきた。基本的には、世の中の現象を理解するための学問であって、人間の存在は物理学自体の中には必要ない。しかし生物学はそうではない。まさに人間を含んだあらゆる生命を学問の対象にしている。特に「こころ」の問題をどう科学で扱うかというのは非常に難しい問題。今後、物理学とヒューマニズムがどう折り合っていくのか、というのは興味深い、という話。

科学と宗教の対比は、そこかしこでなされる。科学と宗教がどういう点で似ているのか、そしてどういう点で違うのか。科学は宗教の代わりになりうるのか、というような話。

科学の大衆化の話も出る。これまで、科学者という人種は本当にごく僅かだった。しかし、その数は着実に増えている。これは、科学が大衆化されていっていると見ることが出来る。その過程で、サラリーマン的に仕事をこなすというような、およそ知的探究心とは無縁の科学者も多く出てくるだろう。

感想

僕にとっては難しかったんですけど、でもやっぱり面白かったですね。全体を通して作品を理解するというのはちょっと難しかったんだけど、個別の話は凄く面白かったです。二人とも科学というものに対してなかなか批判的な視点を持っていて、そこから導かれる結論が色々と楽しい。例えば、「過去の研究の蓄積なんて見たって仕方無いんだから、図書館とか全部封鎖しちゃって、自分の頭で考えて、それで相対性理論なんかを自分で発見しちゃえばいいんだ」みたいなことを言ったり、「みんな役に立つことをしてたら忙しいんだから、これからはどれだけ何もしない人間を生み出せるかが重要なんじゃない?」みたいなことを言ったりしている。そういう個々の意見に対してどう感じるかは、読者それぞれの好みの問題として、でもそういう結論を出すに至る論理の流れなんか結構楽しいしさらにちょっと批判的な視点で見てみるという見方は僕は結構好きでした。

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